なぜ『徒然草』は名著といわれるのか
『徒然草』は、高校の教科書にも必ず出ていて、どなたも少しは読んだことがおありであろうと思う。『枕草子』と並んで、随筆文学の傑作として、古今の名著とすべきものであることは当然であるが、といってやはり、なかなか全部を通読した人はそんなに多くはないかもしれない。そもそも、この書の作者、兼好法師という人は、どういう出自のどういう経歴を持った人であったか、ということについては、近年になってさまざまの新しい研究が現れ、従来言われていた伝記的なことがらが、あまり当てにならないことがわかってしまった。じつは生没年すら不明とするほかはない。万事は、これからの研究に待つというところである。
ただ、そういう学問的なことを離れて、この作品は作品として、充分に楽しく読める。
兼好という、ひとりの「当たり前の人間」がいて、或る時は仏の教えに深く分け入って人生の万般を考えてみたり、或る時は若き日の想い出に耽ったり、或る時は俗界のさまざまな理不尽や愚かしい人々の有様をやっつけたり、或る時は珍談奇話のようなことを苦笑裡に書き留めたり、感銘を受けたことを思い出すままに綴ったり、ほんの備忘録のようなことを簡単に書き置いたり、その渾沌たる筆の運びのなかに、兼好法師という人の複雑で正直な人間性が顕れていると見て良い。
これがあまりに一つの思想なり信仰なりに凝り固まった本だと、読むのは息苦しく、読書の楽しみは損なわれることもあるが、この、良く言えば多彩で視野の広い筆の運び、悪く言えば雑多なありようは、まるで走馬灯のように、次から次へと目まぐるしく展開して、私ども読む者を飽きさせず、いつも新鮮な興味を与え続けてくれる。
それが、随筆というものを読む、本来の楽しみであるに違いない。
それゆえ、論理的には矛盾するようなこともかれこれ言っているのだが、いやいや、その矛盾のなかにこそ人間本来の姿が見えてくるというものだ。あるいは揺れ動く心と言ってもいいかもしれない。
だから、鴨長明の『方丈記』のように、ずっと一つの心で貫かれているものと違って、仏教者のようであったり、漢学者のようであったり、そうかと思うと、平安朝の物語作者のようであったり、ドキュメンタリータッチであったり、憤慨したり、喜んだり、自慢したり、怒ったり、呆れたり、まさに人間兼好が、ありのままの自分をさらけ出して書いている、そんな感じがするのが、この本の、いちばんの味わいである。
兼好法師の物好きなる世界に心を遊ばせる
ひと続きの長い物語ではないから、かならずしも巻頭から巻末まで順に通読する必要もなく、気の向いたときに随時任意のページを開いて散読するのもよい。しかし、読み始めると、つい次の段も読んでみようかという気になって、いつの間にか読み耽ってしまう、それがこの本の卓抜なる力である。ただ心を空むなしくして、兼好法師の物好きなる世界に心を遊ばせる、そんなつもりで読むのが、実は正解かもしれない。
わが「謹訳」シリーズも、『源氏物語』『平家物語』(以上祥伝社)『世阿弥能楽集(上)』(檜書店)と続いて、本作が四本目ということになるが、注解事項まで含めてできるだけ本文内に織り込むというのが「謹訳」の方針ながら、本書においては、他書よりも若干注記を多く挿入してある。また言葉で説明するよりも図示したほうが分りやすい事柄については、挿絵を加えるという工夫もした。いずれも、やや分りにくい言葉や物について、できるだけ分り易くしたいという思いから工夫したところである。読者宜しく諒とせられたい。
[書き手]林望