書評
『陸軍中野学校外伝 蔣介石暗殺命令を受けた男』(角川春樹事務所)
「国家の一手段」生きた父の姿描く
自衛隊においていわゆる特殊部隊の創設に関わった伊藤祐靖による、父親伊藤均の伝記だが、通常の他者による客観的な記述ではなく、折に触れて父親が息子に語ったであろうエピソードの集積が本書を構成している。副題の「蔣介石暗殺命令を受けた男」がその間の事情をよく語っていると思う。本書の最後に「本書は事実を元にしたフィクションです」という奇妙な但(ただ)し書きが入っている。著者にはすでに『自衛隊失格』(新潮社)、『国のために死ねるか』(文春新書)などの著書がある。評者の私は昭和十二年生まれ、伊藤均とはちょうど十歳違いである。自分が生まれた頃の世間の雰囲気を、いささか特殊な状況ではあるが、生き生きと伝えてくれる語りという意味で、本書を興味深く読んだ。日本の近代社会のこうした局面は戦後を主導したGHQとそれに追従する人たちによってほぼ消されてしまい、今ではほとんど想像すらできなくなっているであろう。現代の若者にとっては異世界の話ではないかと思う。
一言にして言えば、伊藤均は国家の一手段であることに徹した存在である。自己を上位概念の手段化することは、個性尊重を叫ぶ現代ではおよそ理解しにくいのではないかと思う。評者自身はこの伝記を読みながら、米国が日本と戦争をした根源は果たして何かという疑問があらためて浮かんだ。原爆二発を落とすまでに潰したいと米国に思わせたものとはいったいなにか。私は米国人ではないからわからないが、ドナルド・キーンが生きていたら訊ねてみたいと感じた。同時になぜかボストン・テランの『神は銃弾』(文春文庫)を想起した。
私は政治には関心がないので、著者の立ち位置を政治性ではなく身体性の面からとらえている。個とはまさに身体であり、よくそう思われがちな心ではない。身体を手段化することは決して稀なことではなく、すっきりした生き方を生み出す。伊藤均が蔣介石が死ぬまで、銃撃の訓練を怠らなかったという挿話は、その意味でよく理解できる。
評伝を挿話の連続という形で書くことは、著者にとってやや違和感ないし警戒感があるのかもしれない。だから「事実を元にしたフィクション」というヘンな注記をしているのであろう。しかし挿話の連続という書き方は司馬遷『史記列伝』以来のきわめて古典的な方法であり、ある人物の事績を数千年にわたって人々に記憶させるという意味では、唯一無二の形式だと思う。歴史にいわゆる客観性を求めるのは自然科学の影響による一種の悪癖で、E・H・カーが言うように「事実事実の大行進」が十九世紀の西欧の歴史学を特徴づけた。息子の描く父親像に客観性がなくて当たり前ではないか。仮にそこに事実に反することがあったとしても、そのこと自体が事実である、というしかないであろう。宇宙に遍在する法則を記述する物理学ですら、論文には著者名を書く。法則自体は著者があってもなくても成り立っている以上、著者名なんて不要なはずである。
伊藤均は終戦間際に軍籍を抹消される。公式のドキュメントを重視するなら、本書という伝記自体が存在できないのである。ヘンな国だなあと読了してあらためて思う。
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