目線の低さ孤独なつぶやき
二十世紀は自伝の世紀と言われている。その説の当否はともかくとして百年前後のあいだに多く書かれたのは事実である。本書もその一つだが、作品の舞台を行き交う人物がおびただしいのに、著者の孤独の影がしっかりしみついている。それもそのはず、大方の自伝が煌めく人生を見せびらかしているのに対し、周作人の場合しょせん敗者の独り言に過ぎない。しかし、顕示欲と無縁の目線の低さはかえって孤独なつぶやきに輝きをもたらした。本人は自らが置かれた立場をよくわきまえている。だから、原題は自伝とはいわず『知堂回想録』とした。
自伝だと誇示の想像力が働き、自意識の裏庭に雑草が生えがちである。周作人は自分が評価の割れた人間だと自覚しており、波瀾万丈の人生が黄昏を迎えようとしたとき、世間の評判はもうどうでもよくなっている。最後の作品となる自伝は友人の誘いがきっかけだが、真実を後世に残したいという気持ちも強く働いたであろう。毀誉褒貶を度外視した精神こそ孤高の王冠にかがやく宝石である。
周作人がいう「事実をそのまま書く」とは謙遜でも文飾でもない。彼は記録魔で、若い頃からずっと日記をつけてきた。この自伝も日記をたよりに、遠のいた記憶を掘り起こしながら書かれたものである。
長らく北京大学教授を務めていたが、本人はもとより文筆家という自負があった。本書でも批評活動の記述が主軸になっているが、著者が生きた時代や社会的状況が浮き彫りになったのは、意図せぬ収穫といえよう。
興味を惹かれたのは兄魯迅への言及である。前半には魯迅にまつわる思い出が多く、兄弟愛に溢れるエピソードが多く語られている。「故郷」や「百草園から三味書屋へ」などで、魯迅が美しい夢物語のような田舎町の暮らしを、水墨画のような奔放さで描いたとすれば、周作人は徹底的な細部描写で地域社会の光と影を細大漏らさずに再現した。
ただ、故意に迂回したこともあった。魯迅との不和はその最たる例である。「弁解しない説」という小節では、「弁解しない」ことを理由に、真実の不開示を弁解した。「弁解しない」といえば、「漢奸(かんかん)」と呼ばれたことも挙げられよう。日中戦争が起きると、北京大学が中国南部に遷(うつ)った。高齢者や病弱者の教授四名は大学の許可をもらって残留したが、それが後に罪に問われることになった。言いたいことはいろいろとあったはずだが、ここでぐっと堪えたところに、周作人の気位があった。
その気位も文化大革命が起きると、粉々に打ち砕かれてしまった。紅衛兵は彼の自宅に押し入り、八十一歳の老人をベルトとこん棒で滅多打ちにした。後ろ庭にある小屋に閉じ込められたまま、ひたすら堪え忍んだが、約八カ月後、苦しみと辱めのなかで八十二歳の生涯を閉じた。自伝を書き上げたとき、よもやそのような結末を迎えるとは、予想だにしなかったであろう。
周作人は紹興の出身で、原文には南方方言や辞書にも載っていない表現が多い。訳者は丁寧に調べた上、一つ一つ正確に訳出した。やや古風な文体が清々(すがすが)しい日本語になっているのはありがたい。共訳者の劉岸偉による『周作人伝』もぜひ併せて読んでほしい。