家から遠く離れたところへ、自由に行けるということ
1830年代に、地元の駅から出る初の周遊列車のポスターが貼り出されたときのわくわく感を想像するのは難しい。旅の準備期間は、現代の(一部の)人々が、最新のスマートフォンやタブレットを手に入れる列に並んでいるときの興奮に似ていただろう。何を手に入れるかはだいたいわかっている――もっと広い世界とのつながりだ――が、実際に試してみるまでは、どんなものか本当にはわからない。18世紀から19世紀初頭の人々は、かなりの距離を徒歩や馬車、船で移動し、競馬や海辺へ出かけるなど、集団で楽しむこともあった。だが周遊列車によって旅はもっと簡単に、そして何より手頃な価格になり、日帰り旅行客に多くの行き先をもたらした。さらには、最貧困の労働者家庭を除くすべての人々に、こうした活動を売り出す機会が拡大した。
鉄道は労働者階級の生活のほぼ全面に工場時間という規律を課し、初めて〝仕事〟と〝余暇〟に明確な区別を作るのに一役買ったが、一方で周遊旅行は、ほんの一時ではあっても鉄道のリズムを織機のリズムに代えることで、逃避の手段を与え、一部を埋め合わせていた。それは刺激的なことだったに違いないし、初期の鉄道の試行錯誤を考えれば、相当神経をすり減らしたことだろう。
これらのことは、1830年から本線のネットワークが拡大する中で、鉄道の後援者や投資家、取締役、管理者にとって最重要事項ではなかった。確かに、リヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道の開業は、取締役が周遊旅行を主催する機運を高めたが、本当に金になるのは貨物の輸送だと考えられていた。
その後の30年、鉄の触手が広がるにつれ旅客が激増したことは予想外であり、少なくとも最初は、金銭的な余裕のある上流階級にほぼ限られていた。現に、鉄道会社の中には、割高な運賃を払えない人々が普通列車で旅行することをわざわざ難しくするものもあった。1844年に導入された、グラッドストンの有名な〝議会〟列車[裕福でない人が安く基本的な鉄道旅行をできるようにするために法律によって定められた旅客列車]も似たり寄ったりだった。1マイル1ペニーという料金は、すぐにほとんどの労働者には払えないほど値上げされたからだ。そのため、社会改革主義者、起業家、さらにはまもなく鉄道会社そのものによって、さまざまな理由で奨励された安い周遊列車は、予想外の発達を見せ、たちまち鉄道業の重要な役割を担うようになった。
だが、それがどれほど重要で、どれほど急激なものだったかは、スーザン・メジャーが本書の基となる博士論文を完成させるまで、歴史家も完全に理解していなかった。彼女は労働者階級の周遊旅行に命を吹き込み、こうした初期の旅行がどのようなものだったか、なぜ人々はあらゆる不便に我慢していたのか、本当の意味で教えてくれる。これから始まる旅を楽しむことだ――もう二度と、満員電車に文句はいえなくなると約束しよう!
[書き手]コリン・ディヴァル(ヨーク大学鉄道学教授)