書評
『姥棄て考 老いの場所をさがして』(岩波書店)
現代 世代間対立に潜む棄老の不安
民俗学の論考を思わせる書名だが、領域の敷居を遥に超えたところに探索の目線が向けられている。老について思いをめぐらし、生と死という根源的な問いは魂の拷問という形で示されている。長年、フォークロアの大地で神話の落穂拾いに勤(いそ)しんできた者として、習俗のぬかるみに足をとられている人々から視線を逸(そ)らしたことは一度もない。土の中に深く根を下ろし、地上にひ弱な姿をさらした一本の草でも、聞き書きの旅人はその囁(ささや)きを聞き逃すことはない。土俗的精神の地層から何が汲(く)み出せるか。共同体という木から枯れそうな古い枝が太い幹の成長の中でいかに折られてしまったのか。過去から現在へと続く時間の流れにおいて捉え直すと、あっと驚くものが少なくない。
棄老譚(きろうたん)の基層には、口承文芸の網状組織がいくつも重ね合わさっている。棄(す)てられたのはなぜ爺(ヲジ)よりも姥(ヲバ)が圧倒的に多いか。遺棄の場所はどうして山のほうが選好されがちか。文字記録として平安時代中期の『大和物語』が残っているが、その原型はむしろ伝承にさかのぼるという直感は決して的外れではない。
民話が放つ意味の光芒(こうぼう)はある焦点に収斂(しゅうれん)していくことは必ずしも多くない。長い歴史的時間と広漠な空間のなかをさまよっていたこともあって、その形式も内容も重層的に拡散していく形質を多く持っている。話芸の自律的な回転力も加わり、その正体に近付くことはなかなか容易ではない。歴史の川のなかでたえず変容しつづける物語群の輪郭に迫るほど、その姿はかえって逃げ水のように遠くへ去っていく。
語りの深部に絡みあっている無意識を透視するために、いくつもの分光計が用意されている。日本型と外来型の四様式に分けることで、物語の末尾に差す孝子譚の影を析出し、棄老の場所についての探求は、得意の境界論に新たな奥行きをもたらした。社会形態に着目すると、家族や村落共同体の親密性と閉鎖性の構造が浮かび上がり、さらに、足入(あしいれ)婚と嫁入婚の転換というプリズムからは嫁と姑(しゅうとめ)の権力関係が映し出された。
近代小説のなかで、棄老への想像力はかなり違ったベクトルが向けられる。丁寧なテクストの読みを通して見えてきたのは、時代の移り変わりと社会構成の変容ぶりである。説話の上に重ねられた虚構についての腑分(ふわ)けは、再解釈の次元を超えて、現代人の不安を炙(あぶ)り出している。
文化の遺伝子として、棄老の衝動はポスト工業社会でも変異を遂げながら、新たな形として顔を覗(のぞ)かせてくる。映画、ネット言論などに見られるように、経済的合理性と倫理性の対立は未来社会の岸辺にも激しい波しぶきを吹き上げている。人々は迫りくるディストピアの足音に怯(おび)えているのかもしれない。実際、介護疲れによる殺人事件はときおりメディアで報じられているが、規範的責任が酌量の余地にかぶさっているところに衝撃性がある。日本だけではない。最近起きたフランスの大規模抗議デモは、教育の予算不足がきっかけだが、その背後には高齢者福祉の影がちらついている。財政配分をめぐる年代間の対立が解消されないかぎり、棄老の欲望は日常の穏やかな水面から突如として姿が現れてもおかしくない。読み終わってそんな思いが頭をよぎった。
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