対談・鼎談
『キリストの誕生』遠藤周作|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談
山崎 アテネでポーロは嘲笑されたあと、神殿につれて行かれて、多神論者と議論させられる。ところが十六世紀における日本人の、キリスト教に対する態度というのは、かなり違うんですね。たしかに日本人も、いろいろ議論はする。しかし、根本的なところで日本人は多神教の信者ですらないんですよ。どっちでもいいんです。あのときの日本人の態度を一言でまとめれば「それがどうした」ということなんですね。
つまり、アテネの人間は、すくなくとも多神教を信じているわけで、そこに一神教が入ってきては困るから喧嘩をする。日本人は一神教といわれると、「どうもその理屈はおかしい」とか、「あなたの議論の中に撞着がある」といった議論はするけれども、どっちが正しいという議論は決してしないですね。
丸谷 自分の意見を積極的にいわない。
山崎 いや、本当にどっちでもいいんです。秀吉がどういう態度を取ったか。女房を二人以上もつことを許してくれるならキリスト教でもいいよ、といってる(笑)。
木村 そこはちょっと異論があるんです。十六世紀後半の日本のキリシタンは、約七十万人ともいわれるわけです。ところが、いまだに日本人のキリスト教徒は七十万から九十万でしょう。人口は約四倍になっているわけで、入口比からすると四分の一に減っていることになります。
だから十六世紀後半の戦国時代には、キリスト教を受け容れる、ちょっとヨーロッパに似た土壌があったんだと思うんです。
山崎 それはわたくしも認めます。ですから、議論をするときに非常に論理的で、キリスト教の考え方の論理的矛盾を衝くんですよ。たとえば、宜教師が「キリスト教的真実は、永遠の普遍的な真実だ」という。そうしたら当時の日本人は、それじゃあなぜ、たまたま現在の歴史的時点において入ってきたのか、と訊くわけです。永遠、普遍のものなら、日本人は昔から知っているはずだ、と。これは、多分いまの哲学者だってそう簡単に答えられませんよ。そういう議論はするけれども、肚の底から、神様の数が複数でなきゃならないとか、単数でなきゃならないというふうには、あんまり思ってないんですよ。
木村 そうかもしれませんね。
山崎 だから、遠藤さんの悩みは深いと思う。遠藤さんは『黄金の国』の中で、日本を”泥沼の国”といっているんです。
木村 イデオロギー抜きの国ですから議論しないわけですよ。
山崎 議論はするんですが、その議論が本来の意味で弁証法的なんですよね。論理は要るが、イデオロギーは要らない。
木村 だから、キリスト教も要らない。
山崎 しかし、それじゃあ遠藤さんが救われない(笑)。
木村 いや、そういう人が大多数だということですね。
丸谷 ただ、この本を読んでいて思うことは、キリスト教の輝かしさとか、晴れやかさとか、その超越的な魅力が、ついに語られていない。
山崎 そうなんですよね。
丸谷 何だかショボショボとしていて侘しい感じなんだね。遠藤さんがこういうキリスト教を信じているというのはわかる。でも、そうすると、われわれが普通考えているキリスト教は違うんだろうか、という不安にかられることがありますね。
山崎 つまり遠藤さんは日本人の立場に立って、キリスト教に対してある申し入れをした。しかし、キリスト教徒の立場に立って、日本人にどういう申し入れをなさっているのかがわからないんです。
丸谷 そうなんだ。
山崎 もしカソリックが、こういう考え方でいいんだとすれば、日本人はなぜカソリックでなきゃいけないのか、ということにもなってくる。これでは、日本の真宗信者とか、浄土宗信者と変わらないわけです。
丸谷 ぼくは、門徒の家で育った人間なんですよ。それで、キリスト教に対してたいへん憧れをもっているわけなんです。ところがこの本を読むとその憧れを裏切られるね(笑)。
木村 わたしは、違った感じを受けました。最後にこう書かれてあります。
〈人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ〉
遠藤さんはおそらく、本質において非常に孤独な方なんですね。わたしたち日本人は、お互いに何か共感があって、救け合いがなされていると思うから、弱さを実感しないんですね。嘘はつくんですよ。たとえば池袋駅の公衆電話を聞いててごらんなさい、「ああ、いま、新橋にいるんだけど」……(笑)。
弱さがあるから、嘘をつくんだけれども、それを悪いことだと実感しないわけですよ。お互い許し合っているところがある。
ところがキリスト教徒は、そのことを神様に告白するわけですね。本人が非常に孤独な精神をもっている場合に、そういう弱さというものが実感される。遠藤さんは、自分の孤独を身に沁みて感じているから、ここで信仰告白をしてるんですね。
山崎 わたくしのごとき汚れた人間でも、やはり、何らかの超越者というものは、あってほしいし、あると思っているんですよ。それが特定されないだけのことでね。
しかし、遠藤さんは、ある特定の信仰を受け容れた人です。それだけ幸せな人なんですから、幸せな分だけ苦労していただかなきゃいけない(笑)。
丸谷 そういういい方されると、何だかゆすられてるみたいだろうな(笑)。
山崎 そこでずうっと読んでゆくと、何となく「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」、というふうに聞こえる。それでいいならカトリックはずいぶん楽だなあ、と思うわけです。
木村 わたしは、悩み多き謙虚な信仰告白と読みました。
山崎 ある意味では、信仰をもって、しかも悩み多く弱い立場を認める、ということほど楽な立場はないんです。要するに「遠藤さん、ズルイよ」という話なんです(笑)。
木村 そういえば、ポーロのことをズルイと書いてあるね。
丸谷 いや、ポーロほどズルイ人じゃないよ(笑)。
山崎 遠藤さんは、間違っても教団はつくらないもの。
丸谷 劇団をつくるだけだ(笑)。
【この対談・鼎談が収録されている書籍】
つまり、アテネの人間は、すくなくとも多神教を信じているわけで、そこに一神教が入ってきては困るから喧嘩をする。日本人は一神教といわれると、「どうもその理屈はおかしい」とか、「あなたの議論の中に撞着がある」といった議論はするけれども、どっちが正しいという議論は決してしないですね。
丸谷 自分の意見を積極的にいわない。
山崎 いや、本当にどっちでもいいんです。秀吉がどういう態度を取ったか。女房を二人以上もつことを許してくれるならキリスト教でもいいよ、といってる(笑)。
木村 そこはちょっと異論があるんです。十六世紀後半の日本のキリシタンは、約七十万人ともいわれるわけです。ところが、いまだに日本人のキリスト教徒は七十万から九十万でしょう。人口は約四倍になっているわけで、入口比からすると四分の一に減っていることになります。
だから十六世紀後半の戦国時代には、キリスト教を受け容れる、ちょっとヨーロッパに似た土壌があったんだと思うんです。
山崎 それはわたくしも認めます。ですから、議論をするときに非常に論理的で、キリスト教の考え方の論理的矛盾を衝くんですよ。たとえば、宜教師が「キリスト教的真実は、永遠の普遍的な真実だ」という。そうしたら当時の日本人は、それじゃあなぜ、たまたま現在の歴史的時点において入ってきたのか、と訊くわけです。永遠、普遍のものなら、日本人は昔から知っているはずだ、と。これは、多分いまの哲学者だってそう簡単に答えられませんよ。そういう議論はするけれども、肚の底から、神様の数が複数でなきゃならないとか、単数でなきゃならないというふうには、あんまり思ってないんですよ。
木村 そうかもしれませんね。
山崎 だから、遠藤さんの悩みは深いと思う。遠藤さんは『黄金の国』の中で、日本を”泥沼の国”といっているんです。
木村 イデオロギー抜きの国ですから議論しないわけですよ。
山崎 議論はするんですが、その議論が本来の意味で弁証法的なんですよね。論理は要るが、イデオロギーは要らない。
木村 だから、キリスト教も要らない。
山崎 しかし、それじゃあ遠藤さんが救われない(笑)。
木村 いや、そういう人が大多数だということですね。
丸谷 ただ、この本を読んでいて思うことは、キリスト教の輝かしさとか、晴れやかさとか、その超越的な魅力が、ついに語られていない。
山崎 そうなんですよね。
丸谷 何だかショボショボとしていて侘しい感じなんだね。遠藤さんがこういうキリスト教を信じているというのはわかる。でも、そうすると、われわれが普通考えているキリスト教は違うんだろうか、という不安にかられることがありますね。
山崎 つまり遠藤さんは日本人の立場に立って、キリスト教に対してある申し入れをした。しかし、キリスト教徒の立場に立って、日本人にどういう申し入れをなさっているのかがわからないんです。
丸谷 そうなんだ。
山崎 もしカソリックが、こういう考え方でいいんだとすれば、日本人はなぜカソリックでなきゃいけないのか、ということにもなってくる。これでは、日本の真宗信者とか、浄土宗信者と変わらないわけです。
丸谷 ぼくは、門徒の家で育った人間なんですよ。それで、キリスト教に対してたいへん憧れをもっているわけなんです。ところがこの本を読むとその憧れを裏切られるね(笑)。
木村 わたしは、違った感じを受けました。最後にこう書かれてあります。
〈人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ〉
遠藤さんはおそらく、本質において非常に孤独な方なんですね。わたしたち日本人は、お互いに何か共感があって、救け合いがなされていると思うから、弱さを実感しないんですね。嘘はつくんですよ。たとえば池袋駅の公衆電話を聞いててごらんなさい、「ああ、いま、新橋にいるんだけど」……(笑)。
弱さがあるから、嘘をつくんだけれども、それを悪いことだと実感しないわけですよ。お互い許し合っているところがある。
ところがキリスト教徒は、そのことを神様に告白するわけですね。本人が非常に孤独な精神をもっている場合に、そういう弱さというものが実感される。遠藤さんは、自分の孤独を身に沁みて感じているから、ここで信仰告白をしてるんですね。
山崎 わたくしのごとき汚れた人間でも、やはり、何らかの超越者というものは、あってほしいし、あると思っているんですよ。それが特定されないだけのことでね。
しかし、遠藤さんは、ある特定の信仰を受け容れた人です。それだけ幸せな人なんですから、幸せな分だけ苦労していただかなきゃいけない(笑)。
丸谷 そういういい方されると、何だかゆすられてるみたいだろうな(笑)。
山崎 そこでずうっと読んでゆくと、何となく「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」、というふうに聞こえる。それでいいならカトリックはずいぶん楽だなあ、と思うわけです。
木村 わたしは、悩み多き謙虚な信仰告白と読みました。
山崎 ある意味では、信仰をもって、しかも悩み多く弱い立場を認める、ということほど楽な立場はないんです。要するに「遠藤さん、ズルイよ」という話なんです(笑)。
木村 そういえば、ポーロのことをズルイと書いてあるね。
丸谷 いや、ポーロほどズルイ人じゃないよ(笑)。
山崎 遠藤さんは、間違っても教団はつくらないもの。
丸谷 劇団をつくるだけだ(笑)。
【この対談・鼎談が収録されている書籍】
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