作家論/作家紹介

ダシール・ハメット『ブラッド・マネー』『血の収穫』『マルタの鷹』

  • 2017/10/07
ダシール・ハメットは一八九四年、メリーランド州セントメリー郡の生まれである。正規の教育は一四歳までしか受けておらず、職を転々とした後にピンカートン探偵社に入社した。途中に兵役や結核の療養生活による中断があるため、同社の在籍期間は正味三年に満たないが、その間にハリウッドの人気喜劇俳優”でぶ”のアーバックルが容疑者となった強姦殺人事件など、いくつかの有名な事件にも関与している。彼が小説を書き始めたのは、一二年にピンカートンを退社したためで、「食うため」にハメットは小説を書かざるをえなかった。

彼の処女短篇は、一九二二年に発表されている。探偵小説を手がけたのもその年のことであり、ピーター・コリンスン名義で「帰路」をパルプ雑誌『ブラックマスク』二二年一二月号に発表している。この作品に登場するのは、中年の世代にさしかかったハーガドーンという白人の私立探偵である。この年齢も、容貌さえ定かではない男が後のコンチネンタル・オプの原型であることはほぼ間違いない。

アメリカの探偵小説は、パルプ雑誌のヒーロー・ストーリーの中から生まれてきたものである。パルプ雑誌の祖型は一九世紀半ばまで遡り、ウエスタン小説や戦記小説などはば広いジャンルを提供する娯楽読物として、大衆に人気を博した。この中から犯罪実話を扇情的に提供するものが現れ、一五年には初の探偵小説専門誌『ディテクティブ・ストーリー』が誕生、二〇年にはそのライバル誌として『ブラックマスク』が創刊された。二二年に創作活動を開始したハメットは、『ブラックマスク』を当面の活動の主舞台に定め、二三年にはコンチネンタル・オプものの第一作「放火罪および…」を発表したのである。

『ブラックマスク』誌に登場した他の作家たちがそう呼ばれないのに(例えばレイス・ウィリアムズを創造したキャロル・ジョン・デイリー)、なぜハメットだけがハードボイルドの始祖の名を冠されるのだろうか? それは、彼が自らの探偵社勤務の経験をもとに、非情でプロフェッショナルであることに徹したコンチネンタル・オプという探偵を創り出したからである。オプはコンチネンタル探偵社のサンフランシスコ支局に勤める男だが、作中で名前が明かされることはない。小太りでやや禿げかかった頭という外見以外には、何もプロフィールを持たない男である。この無名性が、市井の犯罪を題材にして小説を書くことを可能にしたのである。「何を書くか」よりも、「どのように書くか」という文体の問題が重視されるハードボイルド文学はここに誕生したのであり、それは同時に「卑しく、醜い現実を描いて、悪夢の如き虚構へと変貌させる」技巧の文学である、ノワール小説が確立したことを意味していた。

実際に小説を読むと、ハメットが意外に従来型の(謎解き型の)ミステリーを意識していたことがわかるが、オプの本領は推理を働かせることよりもむしろ悪党どもの動きを加速させ、自滅に導くことにある。自らの手を汚すことを厭わないノワール的な主人公像がすでにオプによって確立されている。

その完成型が処女長篇『血の収穫』(二九)である。だが、『血の収穫』の半年前に書かれた(『血の収穫」は、『ブラックマスク』に二七年から連載された)中篇「血の報酬」も見逃すわけにはいかない。サンフランシスコに大ギャング団が集結し、銀行を襲撃して数百万ドルの現金を強奪するという冒頭は、ノワール的世界観を過剰に現出させたものだ。オプはこの金を取り戻すために孤立無援の闘いを挑むが、悪党どものプロフィールを口にしながら(鏡舌なほどに、ギャングの名前が数え上げられている)、彼は明らかに嬉々としている。コンチネンタル・オプはここで黒白が明らかではない「灰色の世界」に足を踏み入れているのだ。『血の収穫』はコンチネンタル・オプが最後の輝きを放った作品である。舞台となるパースンヴィルは、住民たちからポイズンヴィル「毒の街」とも呼ばれる町だ。モデルとなったのは、鉱山都市だったモンタナ州ビュートである。ハメットには一七年にこの町で鉱山主たちに雇われ大規模なスト破りの仕事に就いた経験があるのだ。ハメットは実際のビュートの町には無かった設定――町を支配する”帝王”エリヒュー・ウィルソンの存在――を付け加え、町が二分して殺し合う血のドラマを創造した。後にさまざまなノワール作家が踏襲する黄金のプロットがここに完成したのである。

ハメットの第三長篇である『マルタの鷹』(三〇)は、MGMの映画化作品も含め、ハードボイルドファンには至宝ともいえる作品である。ここに登場する探偵サム・スペードは、すべてに没個性だったコンチネンタル・オプとは対称的にサタンのような外見を与えられた人物だが、オプと同様、自らの職務の遂行以外に関心のない男である。『マルタの鷹』には『血の収穫』ほどの血なまぐささはないが、その代わりに裏切りのドラマに満ちている。スペードが真犯人を追い詰める幕切れは、これまたノワール小説のーつの典型となっているが、ハメットはこの場面を描きたいがために、使いなれたオプという役者を退場させたのではないかと思われてくる見事な裏切り劇である。続く『ガラスの鍵』(三一)も、この裏切り劇を究極まで推し進めた――すなわち、登場人物の感情を徹底的に廃することにより、ストーリーから一切の湿り気を廃した――快作である。

このように後に模倣されることになるプロットをいくつも生み出したハメットだが、ノワール作家としての活動はここまでで、三四年の『影なき男』は都会小説風サスペンスと呼ぶべき、まったく異なった作風だった。以降は自らの飲酒癖や、戦後のマッカーシー上院議員による赤狩りの影響などもあって沈黙。筆を折ったまま六一年にひっそりと没している。

【必読】
ブラッド・マネー (河出文庫) / ダシール ハメット
ブラッド・マネー (河出文庫)
  • 著者:ダシール ハメット
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(247ページ)
  • ISBN:4309460429

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赤い収穫 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 143‐2)) / ダシール・ハメット
赤い収穫 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 143‐2))
  • 著者:ダシール・ハメット
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:文庫(330ページ)
  • ISBN:4150773025

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マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫) / ダシール ハメット
マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
  • 著者:ダシール ハメット
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:文庫(380ページ)
  • 発売日:2012-09-07
  • ISBN:4150773076

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初出メディア

ユリイカ

ユリイカ 2000年12月

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