対談・鼎談

『事件』大岡昇平|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談

  • 2017/10/31
事件 (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集) / 大岡 昇平
事件 (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集)
  • 著者:大岡 昇平
  • 出版社:双葉社
  • 装丁:文庫(576ページ)
  • ISBN:4575658464

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丸谷 これは裁判小説ですね。

昭和三十六年七月はじめ、神奈川県の高座郡で殺人事件が起こった。厚木駅前の小さなバーのマダムであるハツ子の死体が、山林の窪地で発見されたんです。発見者は、大村という山持ちの爺さんで、彼は、六月二十八日の夕刻、
この窪地に近い路上で、自転車を押してくる宏に出会ったことを思い出した。

ところで、宏は、ハツ子の妹のヨシ子と横浜へ駈け落ちしているんです。ヨシ子は妊娠していて、ハツ子はしきりに中絶をすすめていた。で、当日は、集金に出ていたハツ子が、登山用のナイフを買った直後の宏と偶然出会う。自転車に相乗りさせてくれとハツ子が頼んで二人が帰る途中、崖の上で事件が起こった。

宏が、ヨシ子と駈け落ちさせてくれと頼んだのに、ハツ子は、宏の両親へいいつける、といった。そこで宏は、ただ単に脅かそうとしてなんでしょう、さっき買ったナイフの刃を起こす。次の瞬間、ハツ子が草の上に倒れ、胸から血が出ている。死体は崖下の草叢に隠した――というのが宏の供述なんです。

そこで、「殺人、死体遺棄」事件の裁判になるんですけれども、判事あがりの菊地弁護人が優秀でして、検事側の調べの不備を衝いて、次々に新事実を明らかにしていきます。中でもいちばん鮮やかなのは、ハツ子のヒモであった宮内というやくざが犯行の一部始終を目撃していたということを、公判の席で打ち明けさせることでしょう。そして、現場に誘ったのは先に立ったハツ子であったし、凶行のときもハツ子のほうが抱きつき、そのときナイフがハツ子を刺してしまったのだ、ということが結果的に明らかになる。こうして宏は、殺人ではなく傷害致死の被告として、懲役二年以上四年以内という判決――これは未成年だからですね――を受けることになります。

この『事件』という裁判小説は、いわば理想主義の立場で書かれていると思うんです。こういう有能な弁護士がいてもらいたい。裁判官もこの程度に良識があって、健全であってもらいたい。検事も、こういう判決が出たときに、ジタバタしないで、あっさり諦める、その程度の常識はもち合わせてもらいたい。被告も、こういうふうに健気で、誠実な男であってくれ。証人も、いざとなれば嘘はつかないで、利害打算を顧みず告白する立派なやくざであってもらいたい。その他もろもろ、現代日本に対する一知識人としてのたいへん切なる願いが、この長篇小説の底にはあると思うんです。

そしてこういう書き方が、話の運びを御都合主義にする、という方向にではなく、物語の柄を大きくする、小説らしい小説に仕立てることに役立っている。そんな気がしました。

考えてみると、理想主義的な書き方というのは、小説の方法の基本なのかもしれない。小説の典型は恋愛小説だと思うんですが、一体、あの恋愛小説というものは、絶世の美男美女、才子佳人という理想的な人間が二人出会って、理想的に悲しい恋をする。そういう仕掛けなんで、つまり、理想主義なんです。スタンダールの小説なんか、まさしくそうでしょう。してみると、大岡昇平という恋愛小説の名手が、この裁判小説を書いたというのも、もっともなことだと思いました。

木村 犯罪が起こったのも「事件」だけれども、どういう人がどういう裁判所で裁かれるのかも「事件」なのだ、ということを大岡さんは最後に強調していっておられますね。これは、実際そのとおりで、地裁で、たとえば右というと、高裁は左というわけですね。最高裁は足して二で割ったり、原審に差し戻したりするのが普通ですね。一審と二審は必ずといってもよいほど対立します。ですから、結論というものが、それ自体一つの事件だということは確かにいえるわけで、被告人もそこに巻き込まれていくわけですね。

もう一つは、裁判所が被告人に対してどのくらいの刑罰を何のためにいい渡すかということについての、裁判の非常に頼りない一面を、この本はよく表わしています。

刑罰には、応報刑(客観主義)と教育刑(主観主義)という二つの考え方があるんですが、「刑法」の本を読んでも、たとえば応報刑について、幼稚なことが書いてあるんです。赤ちゃんがヨチヨチ歩いて柱にぶつかった。するとお母さんが柱を「メッ」といって叩く、これが応報刑の思想だというんですね。つまり、悪いことをした人は、それなりに報いを受けなければならない、柱が悪いことをしたんだから、柱はその報いを受けなければならない、という発想ですね。

山崎 わたくしは、法というのはその程度のものだろうと思うし、しかし、それを承知の上で敬わなければいけないと思うんです。考えてみれば、人間というのは、ついこのあいだまでたいへん野蛮なもので、親を殺されたら仇討ちをするんだし、犯人を捜すのに探湯(くかだち・神に誓って熱湯に手を入れさせ、傷つかないのを白とした事の正邪の判断法)なんていうことをやっていた。そんな野蛮なことを少しでも減らすために……絶滅するというんじゃなく、少しでも減らすために法はあるので、それだけのためにも、法は尊敬すべきものだと思うんです。

丸谷 野蛮なことを少しでも減らそうとして、ぼくは、特別弁護人(『四畳半襖の下張』事件)になったわけですよ(笑)。

山崎 裁判官というものは、神話によれば、一切の先入見なく、したがって、週刊誌も読まず、女房と話もせず、家ではたいへん不機嫌な顔をして、神経をすり減らして神聖な裁判を行なおうとするものだとされていた。しかし、
現実には、いま、そんな風潮はなくなってきており、若い裁判官は、女房と判決の話もするし、その女房は、どこかの大学の法学部の先生の娘であって、けっこう新聞も週刊誌もよく読んでいる。

木村 裁判官は、じつによく新聞を読む人種だと書かれている。

山崎 この小説のように、こういうことが書かれていくのは、健康なことだと思うんです。その中で、お互いに限界もあり、ごく当り前の人間たちが寄りあい知恵を絞って、まあまあ、この場合は幸運にも、そうひどい判決を下さないですんだ。しかし多分、こういう幸運なケースは七割か八割であって、残り二、三割のところでたいへん理不尽なことも起こっているだろうと思うんです。それを、みんなの努力によって、できるだけなくして行くのは大切なことです。しかし、法に対する根本的な態度としては、七割まあまあの答えが出るということをもって、われわれは、喜びとしなければいけないんだろうと思うんです(笑)。

丸谷 そういう読まれ方がされることを、この小説は非常に意図してますね。それは、この小説が健全なものになっていることの理由の一つだと思うんです。たいへん俗な読まれ方をされても、びくともしないものを書こうという態度がある。でも、ぼくの経験からいうと、民事はともかく、刑事裁判がうまくゆくためには被告側が全知全能をかたむけて努力する必要がありますね。そうでないと、裁判の恰好すらつかないことになる。

山崎 佐藤欣子さんという女性検事が、アメリカの裁判について非常におもしろい本を書いているんです。アメリカでは、日本のように、裁判が真実を求めるというフィクションの上にまったく立っていない。初めから検事と被告という利害対立者がいて、この間の争い、ゲームであるという思想の上に成り立っている。したがって、平気で取り引きをやるし、取り引きをやることはむしろ正しいことだとされる。被告が、もしも「ギルティー・プリー」を行なって、自分は有罪であると認めれば、大いに裁判の手数も省ける。したがって、罪一等を減ずる、ということもあるそうです。つまり、あるルールのもとで負けた人、これが罪人なんですね。ところが日本の裁判は、絶対的真実というものがどこかにあって、それにできるだけ近づこうという思想なんだそうですね。だから法についても、その根本思想は世界じゅうで、非常に違ったものがあり得るわけですよ。

木村 この本にも出てまいりますけれども、ドイツには参審制度というのがありまして、裁判官と素人の陪審員と両方が一緒に裁判に参加するんですね。

山崎 アメリカの場合だと、素人の陪審員の票決があって、それに対して裁判長は刑の量定をする。

木村 ドイツでは、裁判官と陪審員とが一緒に有罪か無罪かを考えるわけです。

裁判官は専門家であるだけに、往々にして常識を失うことがある。わたしは判例研究会でこんな議論を聞いたことがあるんです。患者の同意を得て、麻酔をかけて患部を開いたところが、そこは健全で、別のところに患部が発見された。緊急に手術しなければならない、麻酔から醒めるまで待っていたら死んでしまう。ところが、そういう場合にも、患者の同意を得る必要がある、という法律家がいるんですね。患者が死ぬではないか、という反論が出ると、「いえ、患者には死ぬ自由があります」。わたしは唖然としました。

丸谷 たとえば『四畳半襖の下張』事件のとき、中村光夫さんに、弁護側の証人として出ていただいたけれども、あの方はかつての法学士でしょう。法学士中村光夫が陪席に出て審理するということになったら、日本の文芸裁判はずいぶん違うと思うな。

山崎 アメリカでは陪審になる義務がありまして、わたくしがコロンビア大学で教えていた頃も、同僚の先生が、「今年は自分は陪審の義務をもっているんだ」といってましたけど、ちょっと厳粛な顔をしていましたね。裁判はやはり、非日常的な行為に直面して、常識世界ではあり得ないような罰を課するものなんですね。仮りに、陪審に常識を期待できるとしても、同時に彼はその瞬間、人間でなくなっているし、そうなるほかないのではないかな、とわたくしはふと思いました。

丸谷 社会が、だれかを選んでそういう任務を負わせる。それはたいへんなことですよ。

山崎 そこで、職業的裁判官が常識がなかったり、法の滑稽な偶像になっていたりすることにも、何か批判しきれないものは残っているんですよ。

木村 日本の裁判官は実によくやっていますね。それは認めます。この本の中で、国家権力を後楯にした公務員生活はいい、と裁判官にいわせているけれども、そんなもんじゃないと思うんです。

山崎 そこで、文学の話に戻りますけれども、いちばんおもしろかったのは、これが現代に書かれた「近代」小説だ、ということでした。最終章で初めて主人公の複雑な現代的な心理の問題が出てくる。つまり、自分はひょっとしたら、本当に彼女を殺したのではなかろうか、という疑いなんですね。これはかつて志賀直哉が『范の犯罪』という小説で書きかけた問題でありまして、人間は犯意を抱いて、決断という一瞬を飛ばして犯行を実行してしまうということがある。殺してやりたいと思う気持は前々からあった。しかし、殺すという決意はしなかった。結果において、ある偶然のことで殺してしまった。これは一体、一人の人間の一貫した行為なのであろうか。

ここからその先を深めるところに、現代文学というものがある。ところが、これは両刃の剣で、文学を深くもし、かつ袋小路に追いこむ要素でもあるわけですね。

大岡さんは、裁判という舞台をもちこむことによって、その不条理な心理の要素を、うまく排除してしまった。裁判では、そこのところは問わないわけですからね。

ハツ子という被害者がナイフに身を投げかけたときの心理状態がどうであったか、あるいはナイフをもってその体を支えた被告の心理はどうであったか、ということには立ち入らないところで、うまくこの小説が成り立っている。
したがって、裁判という最も非文学的事件を主軸にすることによって、大岡さんは、現代において近代小説を書くという軽業をやったわけです。

丸谷 新しい小説を書こうとしている小説家は、みんなそういう種類のことを要求されているわけですね。そのため新しい手を発見するということはたいへんなことですよ。

木村 だけど、これ、小説としてはちょっとうまくできすぎているんじゃないでしょうか。

宮内の証言で、ハツ子が宏にむしゃぶりついたんだという、肝腎な話がいちばん最後に出てきますね。あのような証言は、実際の裁判ならいちばん最初に出てくるかもしれないんで、最後まで目撃者が取っておいてくれるかどうか、わからないですよ(笑)。

もう一つ、わたしは文学に関係ないから怒られてもいいけど、「のである」という表現があちこち目について、文章がちょっと硬いところがありますね(笑)。

山崎 作者の意図を、わたくしが忖度(そんたく)していえば、あたかも判決文に準(なぞら)えてドライな文章を書こうとしたんだと思うんです。ある一つの文体を見つけたときに嬉しくなるということがある。嬉しくなったとたんに、部分的に勇み足が出ることもあるんですよ。

丸谷 ぼくは、この文体はこれでいいんじゃないかと思う。裁判というものを明快に説明するには、この調子が必要だったんじゃないでしょうか。

山崎 洒落を最後に一言いわしてください。『事件』という題は、たいへんよくできていまして、つまり、心理を書かないという意味において”事件”なんですね。つまり、いま文学がおよそ対象とし得る人間的現象の中から、心理
を排除できる世界というのは、裁判しかないんですね。

丸谷 なるほど、だから理想主義の方法で小説が書けるわけだ。

【この対談・鼎談が収録されている書籍】
鼎談書評 (1979年) / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
鼎談書評 (1979年)
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:-(326ページ)
  • ASIN: B000J8ET3C

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初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1977年12月9日

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