解説

『大岡昇平全集 21』(筑摩書房)

  • 2017/04/23
大岡昇平全集 21 評論 8 / 大岡 昇平
大岡昇平全集 21 評論 8
  • 著者:大岡 昇平
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(827ページ)
  • ISBN:4480702814
内容紹介:
「安らかな老後を求める気持は、私にはない。働き続け、苦しみ続けて死ぬつもりである」-1970年〜80年代前半、老年を迎えた著者の文芸評論、社会時評、コラム、映画論、エッセイ、書評などを収録。

「赤と黒」と「右翼の黒幕」

私は、同世代のなかでは、いわゆる「やくざ映画」、すなわち東映や大映や日活が一九六〇年代から七〇年代の前半にかけて量産した任侠映画を相当に見ているほうだと思うが、こうした「やくざ映画」のなかには、敵の悪親分の上にいる右翼の黒幕というのがかならず登場する。その役を演じていたのは、たいていが内田朝雄か佐々木孝丸であった。

雰囲気からして、この二人が、戦前からの新劇関係者であろうという想像はついた。事実、のちに二人とも、日本近代演劇の生き字引のような大ベテランであることが判明したが、興味深いのは、両者が日本における黎明期のフランス文学研究と意外な部分でかかわりをもっていたことである。

すなわち、まず内田朝雄は、日本におけるバルザック文献の大コレクターとして知られ、翻訳されたバルザックの作品と研究書のほぼ完壁なコレクションをもっていると伝えられている。いっぽう、佐々木孝丸はといえば、こちらは、私たちが学生時代にさんざん歌った「立て飢えたる者」の『インターナショナル』の作詞者であるばかりか、小牧近江とともに第二次『種蒔く人』を創刊した同人であり、バルビュスの『クラルテ』の共訳者でもあった。

というわけで、この二人の俳優のことがにわかに気になり始めていたのだが、最近になって、とりわけ後者の佐々木孝丸はフランス文学移入史においてきわめて重大な役割を果たしていたことがわかった。

それを教えてくれたのがほかならぬ大岡昇平である。といっても、大岡昇平から直接聞いたわけではなく、彼の『大正のスタンダール』に佐々木孝丸のことが詳しく書かれていたのである。



このエッセイのなかで、大岡昇平は、自分とスタンダールとのかかわりについて反省を巡らすうちに、最初にスタンダールを読んだ大正十一年(一九二二年)刊の『赤と黒』(新潮杜)について調べたくなり、新潮社の資料室でコピーを取ってもらったと語っている。この『赤と黒』の本邦初訳の翻訳者が佐々木孝丸だったのである。

佐々木孝丸の訳は、その「序文」で『パルムの僧院』を『パレルモの女城主』と誤訳したために、後にデタラメ訳の烙印を押されてしまったのだが、大岡昇平は、まだスタンダールについて何ひとつ知られていなかった時代なのだから、作品のタイトルを誤訳することはそれほど責められることではないと弁護しつつ、佐々木孝丸が七十五ページにわたる長い解説を書いていることに注目して、次のように高い評価を与えている。

「これは明治末以来のゾラ、フロベール、モーパッサンの自然主義心酔に対して発せられた挑戦で、なお続くゾラ・ブームの中にあって、バルザックとスタンダールをコンビとして捉えた、本邦最初の宣言ではあるまいか。

後篇末尾、七五頁の解説は『スタンダールの影響』『赤と黒のモデル』『愛妹に与えたスタンダールの書簡』の三段に分れている。佐々木氏は『影響』はエドアール・ロッドの『スタンダール』に拠った、と明記しておられる。そして事実同書Rod, Edouard : Stendhal, Hachette, 1892.の第四章『スタンダールの影響』の摘要である。しかし最後に妹ポーリーヌ宛の書簡十通が添えられているのは驚きであった。(……)スタンダールの変名癖も知っていて、スタンダールを入れて四十五が紹介されている。十六歳の文学少年には猫に小判だったせいか、すっかり忘れていたが、大正十一年の時点では、驚くべき充実した内容の解説ではあるまいか」

大岡昇平が佐々木孝丸の解説にこれだけこだわるのは、もしかするとこの解説がのちに自分がスタンダリアンになるための道を開いてくれたのではないかと推測しているからである。つまり、彼は、最初読んだときにはあまり感動しなかった佐々木孝丸訳の『赤と黒』は、むしろその解説の方で、のちの自分の進路を方向づけたのではないかと考えようとしている。スタンダールに感動した自分というものを自らの文学活動の原点にすえて、そこを掘り下げることで自分とは何かと問いつづけた大岡昇平ならではの推理である。

しかし、さらに注目すべきは、探求者大岡昇平の執拗さが、佐々木孝丸の訳文と解説を検討する程度のレベルではとどまっていなかったことである。埴谷雄高から、一八九八年生まれの佐々木孝丸がまだ存命で、しかも同じ成城の町に住んでいる事実を教えられた大岡昇平は、さっそく電話で会見を申し込み、貴重な回顧談を聞き出してくる。

この会見の内容については本全集(筑摩書房版『大岡昇平全集』)に収録されているからあえて触れないことにするが、我々としては、大岡昇平によって明らかにされたスタンダールの紹介者佐々木孝丸の意外な素顔に驚くと同時に、自らの思想や情動の由来について、どこまでも、事実に即して調査しようとする大岡昇平の執念に感嘆するほかない。それは、歴史の真実を知りたいという抽象的な探求心というよりも、むしろ、歴史と自分が接近遭遇するときの漸近線をできる限り明晰な目で見極めたいという「知の根源的感情」といったほうがいい。

大岡昇平とは「自分自身の過去の名探偵」だったのである。

おかげで、私は、やくざ映画の名悪役が、日本におけるスタンダール紹介の鼻祖であることを知ることができた。

大岡探偵の明かしたのはレイテ湾の真実だけではなかったのである。

【この解説が収録されている書籍】
解説屋稼業 / 鹿島 茂
解説屋稼業
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(238ページ)
  • ISBN:479496496X
内容紹介:
著者はプロの解説屋である!?本を勇気づけ、読者を楽しませる鹿島流真剣勝負の妙技、ここにあり。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

大岡昇平全集 21 評論 8 / 大岡 昇平
大岡昇平全集 21 評論 8
  • 著者:大岡 昇平
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(827ページ)
  • ISBN:4480702814
内容紹介:
「安らかな老後を求める気持は、私にはない。働き続け、苦しみ続けて死ぬつもりである」-1970年〜80年代前半、老年を迎えた著者の文芸評論、社会時評、コラム、映画論、エッセイ、書評などを収録。

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