作家論/作家紹介

【ノワール作家ガイド】ロス・マクドナルド『ギャルトン事件』『ウィチャリー家の女』『縞模様の霊柩車』『さむけ』

  • 2017/12/23
一九一五年、力リフォルニア州生まれ。幼い頃、父を失踪により失い、転居を繰り返す貧しい少年時代を送る。大学院卒業後は海軍将校として勤務する。一九四四年、処女長篇『暗いトンネル』を本名ケネス・ミラー名義で発表。シリーズ探偵リュウ・アーチャーは、四九年の『動く標的』で初登場した。アーチャーもの第八作『ギャルトン事件』以降、「中期三部作」と呼ばれる『ウィチャリー家の女』『縞模様の霊柩車』『さむけ』において家族病理と犯罪悲劇を見つめる静謐なスタイルを完成させ、ミステリ史に名を残した。一九八三年没。最後の長篇はアーチャーもの『ブルー・ハンマー』である。

ロス・マクドナルドほど、以降のミステリ作家につよい影響を与えた作家はいないだろう。ことハードボイルド系の作家に限れば、マクドナルド以降の作家でその影響から逃れている者はきわめて稀だ。「ノワール」もまた然り。日米の代表的ノワール作家、ジェイムズ・エルロイと馳星周(ともにすぐれたミステリ読みでもある)が、揃ってロス・マクドナルドへの賛辞を口にしていることからも、それは推察できよう。だが、ロス・マクドナルド作品の大半は、きわめて正統的な私立探偵小説の構造を遵守しており、ノワール的な苛烈さとは、一見無縁に見える。

ロス・マクドナルドが独自の地位を築いたのは、私立探偵リュウ・アーチャー・シリーズ第七作『運命』で兆しはじめた犯罪への心理学的アプローチが、第八作『ギャルトン事件』を経て、「中期三部作」において極められた結果生まれた犯罪原因としての家族病理の凝視という重層的な構造の発明によるとされる。だが、『運命』『ギャルトン事件』において起きた変化は、そういったプロットの問題だけではない。そもそもアーチャー・シリーズは、初期作品からして、かなり巧んだプロットを備えていた。『象牙色の嘲笑』あたりを見ればそれは納得できるだろう。だから(主題の斬新さ/深遠さはともかく)、中期三部作のプロットの緻密さは、その延長線上のものにすぎないとも言える。問題はアーチャーが担う役割なのである。初期作品におけるリュウ・アーチャーは――映画化の際にポール・ニューマンが主演したことから推察できるように――まさしくレイモンド・チャンドラーの影響下にある、タフな正義の担い手であった。それが『運命』で変化を見せた。そしてその変化こそが、平凡なフィリップ・マーロウ・クローンを主人公にたてた、プロットがよくできているにすぎない私立探偵小説シリーズを、歴史的傑作に引き上げたポイントなのだ。

それはすなわち、ヒロイズムの排除だった。マーロウやその亜流たちは、殺伐とした現在(そう、一九五〇年代ですら)において成立し得るヒロイズム/ロマンティシズムの象徴として生み出された。彼らが担っていたのは、「絶対的正義」、「秩序回復の神話」への信仰だった。ロス・マクドナルドの最初期のノンシリーズ作品『青いジャングル』が、まるで西部劇のような構造の荒々しい作品であることからもわかるとおり、ロス・マクドナルドもまた、そうした伝統のなかでハードボイルドを書きはじめた。そして初期のアーチャーも、そうしたヒロイズムの探偵ひとりだったのだ。だがそうしたタフなアーチャー像は、『運命』から『ギャルトン事件』に至る道程で消え、中期三部作においては、アーチャーは事件の「観察者」となってゆく。アーチャーはヒロイズムの担い手ではなくなったのだ。これ以降、アーチャーは〈マーロウ的な)正義を振りかざすことはなくなる。彼は事件の最終場面に立ち会い、それに「決着」はつけるけれど、裁くことなく、ただ歩み去る。

これはおそらく諦観だ。一種の絶望と言ってもいいかもしれない。自らも父を失踪によって失い、惨めな少年時代を送ったロス・マクドナルドが抱いていたプライヴェートな諦念が、その作品に反映されはじめたとみることもできるだろう。ロス・マクドナルド自身の現実認識=リアリズムのありようが、脆弱なヒロイズムを否定したのだと。そしてそれに伴って、より私的な主題――失踪と家族の悲劇――を見つめようとしたのだと考えてもあながち飛躍のしすぎではないだろう。

つまりアーチャー像の変化と、前記の主題の深化とは、おそらく無縁ではない。ロス・マクドナルドの内面については推測の域を出ないものの、この両者が揃わなければ、『ギャルトン事件』以降の作品の完成度はあれほど高まってはいなかったろう。

ヒーローではなく観察者となったアーチャーの透明な目を通じて、ロス・マクドナルドは、われわれに(逃れられない場である家族がすべての根源であるがゆえに)運命的なものに翻弄される人間の悲劇を提示してみせた。正義やら不正義やら、善やら悪やらといった浅薄な価値判断を抜きにして、あるがままの悲劇を、戦後のアメリカのどこにでも起こり得る悲劇をスケッチしていったのだ。

アーチャーは破壊された秩序を回復しようとはしない。ただ静かにその原因を突き止めることで、秩序崩壊の力学を観察し、確固としてインディペンデントな人間存在などありはしないということを暴露する。人間の精神のありようなどじつに暖昧なのだと。運命論、リアリズム。こうした冷徹な視線、ロマンティシズムへの不信が、やがてノワールへと受け継がれていった。そして、アーチャー・シリーズに漂う二〇世紀後半の大いなる不安、実存的不安も、やがてノワールの母体となる恐怖と呪誼へと成長していったのだ。

【必読】『ギャルトン事件』『ウィチャリー家の女』『縞模様の霊柩車』『さむけ』
ギャルトン事件   / J.R.マクドナルド
ギャルトン事件
  • 著者:J.R.マクドナルド
  • 翻訳:中田 耕治
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:新書(285ページ)
  • 発売日:1960-00-00

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ウィチャリー家の女  / ロス・マクドナルド
ウィチャリー家の女
  • 著者:ロス・マクドナルド
  • 翻訳:小笠原 豊樹
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:文庫(410ページ)
  • 発売日:1976-04-01
  • ISBN-10:4150705011
  • ISBN-13:978-4150705015
内容紹介:
女の名はフィービ・ウィチャリー。二十一歳。彼女は霧深いサンフランシスコの波止場から姿を消し、杳として行方が知れなかった。彼女の父から娘の調査を依頼されたアーチャーのこころには、何故かフィービの美しく暗い翳が重くのしかかっていた……。アメリカ家庭の悲劇を描くハードボイルド派巨匠の最高傑作!

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縞模様の霊柩車  / ロス・マクドナルド
縞模様の霊柩車
  • 著者:ロス・マクドナルド
  • 翻訳:小笠原 豊樹
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:文庫(414ページ)
  • 発売日:1976-05-00
  • ISBN-10:415070502X
  • ISBN-13:978-4150705022

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さむけ  / ロス・マクドナルド
さむけ
  • 著者:ロス・マクドナルド
  • 翻訳:小笠原 豊樹
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:文庫(418ページ)
  • 発売日:1976-09-01
  • ISBN-10:4150705046
  • ISBN-13:978-4150705046

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ユリイカ

ユリイカ 2000年12月

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