読書日記

鹿島茂「私の読書日記」- 週刊文春2000年6月15日号 - 藤井省三『現代中国文化探検 四つの都市の物語』(岩波書店)、宮崎市定『現代語訳論語』(岩波書店)、睦月影郎『夢幻魔境の怪人』(イースト・プレス)

  • 2018/01/27

週刊文春「私の読書日記」 ケータイ鳴り響く北京で読む論語

×月×日

連休進行で目茶苦茶になったスケジュールをなんとかやり繰りして、北京行きの日航機に飛び乗る。台湾と香港には二度ずつ出掛けているが、大陸は初めてだ。大陸ではまったく英語が通じないらしいが、北京のことなら知らないことはないKさんご夫妻が道連れなので、大船に乗った気持ちでいられる。

ホテルに向かう途中、胡同(フートン)と呼ばれる平屋の長屋が並ぶ街並みの中に屹立(きつりつ)するポスト・モダンの巨大ビル群に驚く。前近代と超近代の同時併存の最も著しい例がここにある。しかし、一番意外だったのは、車の圧倒的な多さだ。北京は自転車は多いが、自動車は少ないという話だったが、とんでもない。自転車も多いが自動車も多い。しかも、ベンツやアウディなどの高級車もかなりの比率でまじっている。その自動車が自転車や輪タクと交錯し、クラクションが激しく鳴らされる。Kさんの話では、北京はいわゆるアジア的混乱とは無縁な街だったが、五年ほど前から交通渋滞が発生し、騒音がひどくなったという。政治都市北京も確実に消費資本主義の道を歩みつつあるようだ。

夜、ホテルで藤井省三『現代中国文化探検 四つの都市の物語』(岩波新書 七〇〇円+税)を読む。小説や映画に描かれた北京、上海、香港、台北の人々の暮らしを柱に、「四都市の現在とそれぞれの都市が自らのアイデンティティを獲得した過去のある時代とを比較する」という手法をとっているが、都市のガイドブックも兼ねているので、われわれ素人にはありがたい。この本の北京の章で興味深いのは、「単位」と呼ばれる社会主義中国特有の制度についての次のような解説である。

中国では農村戸籍を持つ農民を除いて、すべての就業公民は何らかの”単位”に属し、給与から住居・退職金などの社会福利はいっさい”単位”が供与する。”単位”内部の者は失業の恐れがないかわりに自由な流動は不可能で、誕生から死までの一切の面倒を”単位”に仰ぐのだという。結婚登記からホテルの宿泊、飛行機の切符購入に際しても”単位”発行の身分証明書が必要であるとともに”単位”は家長のように連帯責任を負う。「つまり個人は単位に帰属する」というのだ。『韓素音の月』のキムの言葉を引用すれば、「恋愛も性行為もプライバシーも、死さえも、そのひとつの単位のなかで完結する」ということになる

確かに、建物の門には「○○単位」と書かれた標識が目に付く。この単位は伝統的な中国の家族が担っていた機能を代行し、「村社会」の代わりをしていた。大規模な単位は団地のような建物を建設し、病院や付属幼稚園まで備えた自己完結的な空間を形成しているという。北京では電話が未発達だったことも、上意下達組織としての単位の維持に貢献していた。そのため、単位の外はおろか内部でさえコミュニケーションがとりにくかったようだが、いまや携帯電話の驚異的普及でこの単位のタガも緩みつつあるそうだ。

そう言われれば、テレビのコマーシャルで圧倒的に多いのが携帯電話のCMで、胡同の中でも携帯電話の着信音が響いている。これだけ情報が自由になったら、単位社会ばかりか、共産党の一党独裁にもひびが入ってくるのではあるまいか。

台北を扱った章でも、台湾皇民文学を正当に評価するなど、この著者のスタンスの良さに感心した。現代中国語圏の都市と文化に関する良質の解説書。

現代中国文化探検―四つの都市の物語  / 藤井 省三
現代中国文化探検―四つの都市の物語
  • 著者:藤井 省三
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:新書(238ページ)
  • 発売日:1999-11-19
  • ISBN-10:4004306442
  • ISBN-13:978-4004306443
内容紹介:
北京・上海・香港・台北-大きく変貌する都市、そこで生きる人々は、文学や映画の中でどのように描かれているか。著者自らの探訪・ガイドを交え、言語の問題、共同体の変化や交通・通信手段の発展などを通して、今世紀前半と現在、二つの近代化を対照させ、現代中国を読む。

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胡同の中の曲がりくねった道を歩いていると、中国人というのは、イタリア人が全員歌手であるように、全員が商人ではないかと思えてくる。文革で商業が完全に否定されたにもかかわらず、開放政策が実施されるやいなや、公道に面した家はどこもなにかしらの商品を売ろうとするようになったからだ。一家の主婦が台所の窓を外に開いて、揚げたてのフライや饅頭を売っているし、食べ物を売ることのできない家は、ミネラル・ウォーターやコーラを道端において商いをしている。さらに、家が通りに面していない人は、呼び売りで町中を流す。とにかく、たくましいその商業エネルギーには圧倒される。

こうした商人気質を理解すると、孔子が『論語』の中で過度の利潤追求を戒(いまし)めたことを思い出す。おそらく、性欲の強い国で仏教やキリスト教などの禁欲的な宗教が生まれたように、利潤追求に熱心な国だからこそ儒教のような道徳が発生したのだろう、と、思ったが、しかし、その一方で、われわれは本当に『論語』を理解しているのだろうかという気もしたので、名著の誉れ高い宮崎市定『現代語訳論語』(岩波現代文庫 一二〇〇円+税)を手に取ってみる。これは驚くべき本だ。極端なことをいえば、われわれが教科書で学んだ『論語』とはまったく異なる『論語』がここにはある。これは現代に蘇った孔子の思想だ。

たとえばだれでも知っている「子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲。不踰矩」の現代語訳はこうだ。

子曰く、私は十五歳で学問の道に入る決心をし、三十歳で自信を得、四十歳でこわいものがなくなり、五十歳で人間の力の限界を知った。六十歳になると何を聞いても本気で腹をたてることがなくなり、七十歳になると何をやっても努めずして度を過ごすことがなくなった

宮崎市定がこうした現代語訳を与えた背景には、教祖として孔子を崇拝する解釈を退け、孔子を一人の人間として見るという立場がある。すなわち、孔子は、自分の人生はまっすぐに完成を目指す直線ではなく、途中から下降線をたどる抛物線(ほうぶつせん)だったと回顧しているというのだ。

孔子の一生を表わす抛物線の頂点は五十歳の天命を知る時であろう。この天命であるが、孔子における天はまだ正義を執行する神にはなっていない。それは全く未知の、しかも恐るべき力をもった存在であった。どんなに人事を尽しても何か不可知の理由で思う通りに事が運ばぬことがある。それが天命、天の作用であった。さればと言って努力をやめるわけに行かぬ、成敗を度外視しての奮闘が、孔子の最後に到達した覚悟であって、実際にこれ以上の人生観は考えられないのではあるまいか。耳順、不踰矩は、私の考えでは孔子が体力、気力の衰えを自覚した歎声と思われる

以下、目についた斬新な解釈をあげると、

「子曰く、異端を攻(おさ)むるは、斯(こ)れ害なるのみ」→「子曰く、新しい流行の真似をするのは、害になるばかりだ」

「子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」→「子曰く、理性で知ることは、感情で好むことの深さに及ばない。感情で好むことは、全身を打ちこんで楽しむことの深さに及ぼない」

「子曰く、中人(ちゅうじん)以上は以て上(かみ)を語るべきなり。中人以下は以て上を語るべからず」→「子曰く、普通以上の人間ならば、一流の人物の価値が理解できる。普通以下の人間には、全然分りっこない」

「子、怪・力・乱・神を語らず」→「孔子は怪奇、暴力、背徳、神秘なことを話題にしなかった」

「子曰く、民は之に由らしむべく、之を知らしむべからず」→「子曰く、大衆からは、その政治に対する信頼を贏(か)ちえることはできるが、そのひとりひとりに政治の内容を知ってもらうことはむつかしい」

しかし、一番、宮崎版『論語』の思想を語っているのは次の現代語訳だろう。「子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知れば、以て師と為るべし」→「子曰く、古いことを研究してそこから新しい知識をひきだすくらいでなければ、先生にはなれない」

ちなみに利潤追求に言及した箇所の解釈はこうだ。

「子、罕(まれ)に利を言う。命と与にし、仁と与にす」→「孔子が利益を話題にすることは極めて稀であった。その時でも、必ず天命に関連し、または仁の道に関連する場合に限られた」

ようするに利益を求めようとしても、うまくいくか否かは天命によるし、仁の道に背いてまで利を追求するのは許されないというわけだ。現代の中国人はぜひとも宮崎『論語』の中国語訳を読むべきだろう。

現代語訳 論語  / 宮崎 市定
現代語訳 論語
  • 著者:宮崎 市定
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(373ページ)
  • 発売日:2000-05-16
  • ISBN-10:4006000170
  • ISBN-13:978-4006000172
内容紹介:
『論語』は堅苦しい儒教の聖典や教訓集ではない。弟子たちに礼の作法を教え、詩を歌い、人物を評論し、処世法を説く孔子の人間論である。本書は、東西の古典に通暁した碩学が伝統的な注釈に縛られずに生きた言葉のリズムや文体を吟味し、大胆な歴史的推理をもとに現代語訳を試み、はじめて現代人のためにこの中国の大古典がよみがえった。

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己のフェチシズムを徹底させることでポルノ小説の新境地を切り開いた睦月影郎氏とさる雑誌で対談した。そのさいに献呈された『夢幻魔境の怪人』(イースト・プレス 一八〇〇円+税)を読み始めたら、これがなかなかおもしろい。主人公はあの『ドグラ・マグラ』の夢野久作。著者は夢野ワールドに惑溺するうちに「久作が、ドンナ切っかけで、多くの奇妙な話を思いついたのか、あれこれ想像する」ようになって、この本を書いたのだという。一言でいえば、夢野久作の小説を思い切りポルノグラフィックにして、換骨奪胎しようという試みだ。近親相姦がテーマの「瓶詰の地獄」は、夢野久作が松山郊外の木賃宿で目撃した兄妹のセックスがヒントになったという設定である。

放尿が済んだ後も、太郎はいつまでも湿った茂みを吸い続け、果ては肛門にまで激しく舌を這わせはじめていた。(中略)太郎は先端を、自らの唾液にヌメるアヤ子の肛門にあてがった。(中略)「先生……、そこにいらっしゃるんでしょう?」その時、アヤ子に重なったまま太郎が声をかけてきて、久作はギクリとした。「ごらんの通り、僕たちは兄妹でこんな事をしている畜生です。いずれ、僕たちの事を先生の筆で素敵な小説にして下さいませんか?」

どうやら、夢野ワールドと睦月ワールドとの結合で、一粒で二度おいしいポルノ小説が出来上がったようである。

夢幻魔境の怪人―夢野久作猟奇譚 / 睦月 影郎
夢幻魔境の怪人―夢野久作猟奇譚
  • 著者:睦月 影郎
  • 出版社:イースト・プレス
  • 装丁:単行本(253ページ)
  • 発売日:2000-04-01
  • ISBN-10:487257205X
  • ISBN-13:978-4872572056
内容紹介:
出るに出られぬキチガイ地獄。官能小説界の鬼才がその変態なる頭脳を駆使して、ここに妖しい異世界を創造した。夢野久作が淫らな迷宮を渉猟する…久作の見た邪な悪夢とは。

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【この読書日記が収録されている書籍】
成功する読書日記 / 鹿島 茂
成功する読書日記
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(228ページ)
  • 発売日:2002-10-00
  • ISBN-10:4163590102
  • ISBN-13:978-4163590103
内容紹介:
カシマ流読書日記のすすめ。

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週刊文春 2000年6月15日

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