書評
『酒国―特捜検事丁鈎児の冒険』(岩波書店)
食にまつわる傑作は古今東西数多い。記憶容量の小さな我がお粗末な脳ミソから引っぱり出してくるだけでも、クレッシング『料理人』、ニコルスン『食物連鎖』、エスキヴェル『赤い薔薇ソースの伝説』、ランチェスター『最後の晩餐の作り方』、上司小剣『鱧の皮』、岡本かの子『鮨』などなど、美味しいものを前にして止まらない唾液のごとく湧き出してくる有様なのだ。
そんな中から特におすすめ料理を選ぶとするなら、“中国のガルシア=マルケス”と呼ばれる莫言の『酒国』。小説の技巧が様々に駆使された、複雑な味わいの逸品なのである。
舞台は鉱山の街・酒国市。その市政を牛耳る共産党幹部ら街のボス連中が酒宴の快楽の果てに幼児の人肉料理を食べているという情報を得て、敏腕の特捜検事・丁鈎児(ジャック)が派遣される。が、物語のヒーローであるジャック自身が饗応につぐ饗応に翻弄され、酩酊しっぱなしという体たらくで、真相には一向に近づくことができない――というのが第一テクストで、これは作家・莫言が書いている小説という形で読者に提示されている。そこに、酒国市醸造大学の大学院生にして作家志望の青年と莫言との往復書簡という第二テクストと、青年が書き上げて莫言に送りつけてくる一連の奇怪な短篇小説という第三テクストが絡んでくるのだ。
ヒーローがヒーローたりうる活躍を見せない、人肉食の謎が明らかにされないという点で、これは、ミステリーの形式を借りたアンチ探偵小説だろう。また、美食と酩酊に支配される超現実世界を提示することで、独自の文化を培ってきた中国の波瀾万丈の歴史に内包される真実と虚構の構造を暴いたアンチ・ユートピア小説でもあり、かつ、遊戯としての文学に真正面から取り組んだゲーム小説の貌(かお)も持ち合わせているのだ。
しかしそれにしても、ここに描かれた中国人の食に対する視線の、想像を絶するほどの貧欲さと放埒さといったらどうだろう。その健啖ぶりは、まさに莫言という希代の作家の物語に向ける姿勢と照応しあって強烈だ。二十世紀が生んだ文学百作に必ずや入るほどの、満腹感二〇〇%の傑作なんである。
【この書評が収録されている書籍】
そんな中から特におすすめ料理を選ぶとするなら、“中国のガルシア=マルケス”と呼ばれる莫言の『酒国』。小説の技巧が様々に駆使された、複雑な味わいの逸品なのである。
舞台は鉱山の街・酒国市。その市政を牛耳る共産党幹部ら街のボス連中が酒宴の快楽の果てに幼児の人肉料理を食べているという情報を得て、敏腕の特捜検事・丁鈎児(ジャック)が派遣される。が、物語のヒーローであるジャック自身が饗応につぐ饗応に翻弄され、酩酊しっぱなしという体たらくで、真相には一向に近づくことができない――というのが第一テクストで、これは作家・莫言が書いている小説という形で読者に提示されている。そこに、酒国市醸造大学の大学院生にして作家志望の青年と莫言との往復書簡という第二テクストと、青年が書き上げて莫言に送りつけてくる一連の奇怪な短篇小説という第三テクストが絡んでくるのだ。
ヒーローがヒーローたりうる活躍を見せない、人肉食の謎が明らかにされないという点で、これは、ミステリーの形式を借りたアンチ探偵小説だろう。また、美食と酩酊に支配される超現実世界を提示することで、独自の文化を培ってきた中国の波瀾万丈の歴史に内包される真実と虚構の構造を暴いたアンチ・ユートピア小説でもあり、かつ、遊戯としての文学に真正面から取り組んだゲーム小説の貌(かお)も持ち合わせているのだ。
しかしそれにしても、ここに描かれた中国人の食に対する視線の、想像を絶するほどの貧欲さと放埒さといったらどうだろう。その健啖ぶりは、まさに莫言という希代の作家の物語に向ける姿勢と照応しあって強烈だ。二十世紀が生んだ文学百作に必ずや入るほどの、満腹感二〇〇%の傑作なんである。
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする