対談・鼎談

吉田 健一『まろやかな日本』(新潮社)|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談

  • 2019/07/13
まろやかな日本 / 吉田 健一
まろやかな日本
  • 著者:吉田 健一
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:-(221ページ)

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山崎 吉田さんは、ヨーロッパ、あるいは西欧文明というものを、日本で最もよく知っている文学者であると同時に、完全無欠なる日本人でもあります。その吉田さんが非常に堪能な英語で書いた日本文化論という意味で、これはユニークな中でもユニークな本だろうと思います。

吉田さんの発想は、日本文化を、分析的に研究することに対する皮肉と批判から出発しております。したがってこの本を、分析的に紹介することはほとんど不可能です。

たとえば日本酒というものの玄妙さを縷々説明している章がある。おそらくこれは日本酒のうまさを英語で叙述した、二つとない文章だろうと思います。

西洋の酒は、ブドウ酒であれ、コニャックであれ、ある場面、ある時間、ある段階で、役割が決定されている酒である。たとえば食前酒があり、食事の最中でも、白を先に飲んで赤をあとで飲むという風に、飲んでいる過程で、次の酒のことを思い浮かべなければならないような、そういう酒である。しかし、日本酒は、その単純で奥深い味わいの中に、あらゆる場面に適合する多様性をふくんでいる。

日本酒は、食前に飲んでも食後に飲んでもいいし、食事と無関係に飲んでもいい。立ち飲みもできれば、さらに、いつまでも飲んでいられる酒であるというあたり、日本文化のある一面を、非常にうまくいい当てています。この本を読むと、たいていの分析的な日本文化論というものが、野暮に見えるだろうと思います。が、しかしそういう裁断を下すこと自体、吉田さんの流儀ではないはずで、まあ、文化を語る語り口には、いろいろのタイプがあり得るということでしょう。

これはご本人が英語で書いたものを、幾野宏という人が翻訳したわけで、どこまでが吉田さんの文章で、どこまでが翻訳の文章であるか、見きわめにくい。わたくしの率直な印象では、最初の四分の一ぐらいは、かなり読みにくかった。しかし、特に食べもの、飲みものの話が出てくるあたりから、俄然滑らかになり、あとは巻を措くあたわざる勢いがあります。この文章自体が、わたしは、やはり吉田さんのものの見方の現われなんだなと思いました。

たとえば、丸いものを描くときに、少しずつ視点を変え、視点を変えるたびに、区切りのある文章をつくっていけば、分析的な観察ができますが、吉田さんはその視点を動かさないで、そこで見えるものを、いわば一つの文章の中に幾通りも重ねて書いてしまうというやり方をとっている。一匹の魚を食べるときに、皮や肉や骨付きの身などを、分けて一つずつ味わうというのもひとつの方法ですけれども、何もかもいっぺんに頬張って全体を味わうのも、また一つの見方でありまして、どちらがいいかというのは、軽薄な人のいうことでしょう。

丸谷 吉田さんの本は、吉田さんの調子に馴れないと、全然わからないことになってしまうんですね。一つには吉田さんのものの考え方の型、流れ具合を、予備知識としてある程度心得ていないとダメなんです。もう一つは読むときのこっちの置かれた条件が問題ですね。

たとえば新聞の学芸欄に、吉田さんの文章が載る。そうすると、どうしても読みづらいんですよ。新聞というもののあわただしさと、吉田さんの文章の時間のおっとりした流れ具合とが、合わないんですね。

ですから、新聞で吉田健一を読んだ人にはいたずらに反撥を感じてしまう人が多いんです。吉田健一を読む場合には、なるべく単行本で、しかも一段組みの本で読んでもらいたいと思いますね。

吉田さんの文章に対する反撥の最たるものは、その文体、ことに句読点のなさなんです。けれども読み馴れると、あの句読点のない文章が非常な魅力になるんですよ。吉田さんと並ぶような調子の文章の名人は、室生犀星しかいないと思うんです。あれも、名文なのか悪文なのか、われわれの単純な分類ではどうにもしようがないぐらいのすばらしいスタイルですよね。

日本の名文家の番付をつくるとすれば、正横綱には絶対ならないけれども、張出横綱には必ず入れなきゃならないみたいな……。

山崎 技能賞旭国みたいなもんだな(笑)。

丸谷 とにかく張出大関とか、張出横綱とか、そういう人たちですよね。

木村 この本読んで最初に感じたことは、おぼろ月夜のような本だということですね(笑)。要するに明と暗が滲んでいて、はっきりした境界がない。

たとえば東京についての描写があります。

東京に東京らしさを与えてきたものは、主としてその単調な、くすんだ感じだった。(中略)赤煉瓦は褐色になり、川の水の色調は青空の下でさえ陰翳をおび、店の看板は、けばけばしい色彩を保てないためにわずかのあいだしか目を惹きつけない。

そのくすんだ色調というものに、著者は非常に魅力を感じているんですね。そのことがお酒の議論にも、大きな意味をもっています。

日本酒は神さまのお酒であって、一すすり一すすりしながら飲む。盃に濃い青い色を浮かべながら飲む。そこには、激しさというものがありません。そういう点で日本的な生き方そのものが、ここで表現されてるように思います。

だから、一見矛盾してるようなところもあるわけですね。

一方で日本の文学にはたいへんユーモアのセンスがある、しかも庶民の日常生活がそこで描き出されているんだと書いておられる。しかし、他方で、日本人には致命的な生真面目さがあって、愛想が尽きるとも書いていらっしゃるんですね。結局、日本人の生き方というのは、仕事にせよ、遊びにせよ、ただもう夢中になって、一枚の絵を完璧に仕上げるという、完璧性を求めるところがあるというわけです。

両方ともたしかにそのとおりで、結局これらを読むと、何となく日本がわかるということですね。頭の表面じゃなくて、脳の芯のほうでジワッとわかる。何年ぶりかで上等のスフレを食べたような感じで、おいしいといったらおいしいし、じゃどんな味かときかれると何といっていいかわからない、そういうふうな感じがしたんですね(笑)。

丸谷 この中で「人の足を引っ張る」という言葉について書いているところがあります。これは英語の“to pull the legs”にあたり、英語では単に「からかう」という意味になる。ところが日本語だと、人の出世を邪魔するということになる。他人が社会的に成功すれば、それを妨害しようとするのが当り前であると、日本人は考えてきたし、いまも考えているわけですね。吉田さんは、それが不思議でしようがない。その不思議ないいまわしにショックを受けたことから話がはじまります。そして――

方法と結果、技術と効果へのこれほどの専念ぶりは、どちらかといえば実生活よりも芸術の領域に多く属している。(中略)われわれは芸術にではなく生活に天賦の才能を注ぎ込むのである。

と、こうなったあとで、こんな風に生活と芸術とをあまりにも厳密に区別して論じること自体が、ひょっとすると間違いなんじゃないか。十九世紀後半のヨーロッパの、ヘンに芸術的にすぎる悪弊をこうむっているのではないか。つまり、そういう悪弊をこうむらないで、悠々と生活を芸術化しているのが、日本人ではないかといっている。とすれば、十九世紀以前のヨーロッパ人の典型と、十九世紀後半のヨーロッパの影響によって毒されていない昔の典型的日本人とは、一致するわけですね。そういう存在が、吉田健一だったと思うんですよ。ところが、その吉田健一にとって、人の足を引っ張るという日本社会の習慣は不思議でしようがないものだったんですね。吉田さんという人が一種の奇蹟的な存在であったいちばん大きな特色は、こういう現代日本の村落的性格に対する、ほとんど先天的な理解の欠如ではないでしょうか。

木村 足を引っ張るという日本人の特性は、江戸時代にできたんですね。山崎さんの嫌いな江戸時代(笑)。農作業をするにあたっては、水を共同利用しなきゃいけないし、また稲刈りや、田植えのときには人の協力を得なきゃいけない。だから村人は一致結束するんだけども、それは決して心の底からじゃない。互いに嫉視反目があって、「隣のうちに蔵が建てば、自分のうちには腹が立つ」なんていい方もあるわけです。吉田さんはそういうのに耐えられないんでしょうね。

しかし他方で、この繊細な世界を楽しんでもいる。お互いに一致結束するからこそ、繊細な人間関係とか、繊細な感覚も働くわけです。日本では生活と芸術が一体化していると書かれていますが、本当だと思いますね。

ヨーロッパ人が、日本の農業見ると、これは農業じゃない、園芸だというんですね。園芸みたいに手が入ってるわけですよ。だからいわゆるヨーロッパ流の芸術作品には、あまりおもしろいものがない。日本人の芸術的な感覚は、いわゆる芸術作品よりも、たとえば着物とか建具、あるいはカメラとか、超高層ビルとか、ああいうところに発揮されてるんじゃないですか。その意味じゃ、吉田さんは非常にいいところを突いていると思いますね。

山崎 この本を読みながら、思い浮かべたのは、永井荷風の『新帰朝者日記』や『監獄署の裏』といった、明治末年の帰朝者の日本批判なんですよね。

永井荷風の場合、ヨーロッパ文明は、ある時間をかけてゆっくりと醱酵したお酒みたいなもので、それに対して明治の日本は、江戸にあった文化を叩き潰して、何やら薄汚ない廃墟をこしらえたというイメージですよね。だから彼の西欧文化礼讃をひっくり返すと、今度は最も古典的、伝統的な江戸文化の礼讃と直結してしまう。それとまったく違った意味で、吉田さんの気持の中にも、微妙なアンビバレンスがいつもあると思うんですよね。

たとえば、日本の座談会という不思議なる習慣は、特にこれという主題もないのに、延々としゃべっていられる不思議な集まりだといっている。人の議論を論理的に批判して語りあえない風土に対して、一方で筆者は嫌悪を、覚えているんですよね。

ところが、そこで思い出されるのは、オックスフォードのカレッジにおける一種の文化です。ここでは、あたりさわりのない話を、延々とやって、真綿にくるまれたような気分になって、これぞ文化だと思えて来る。近代という世界の論理に生きている人が、そのものさしで見ると、うまく切れない日本の状況が、近代の本家本元であるイギリスで実現してしまっている。そういう日本文化の重層的な構造にイライラしながら、しかも捨てられないその複雑さが、この文章の複雑さになって出てくるわけですよね。

丸谷 そうなんですよ。つまり吉田さんの置かれている条件が、クルリとよじれた立体図形みたいなものだったんですね。そのよじれた立体図形を、原稿用紙という平面の上に捉えようとすると、あの異様な天才的な文章にならざるを得なかったんだと、ぼくは思いますね。

木村 結局、ヨーロッパをよくわかっていながら、日本酒が好きなんですよ(笑)。

山崎 彼のヨーロッパ的ものさしでは、日本酒こそ最高の位置に来ちゃうわけですよ。

丸谷 そうなんだ。

山崎 その矛盾は、彼も苦しいわけで、どこか明快なところを一個所つくりたい。そこで出て来るのが、「反米」なんです。アメリカ文明というのは浅薄で、日本に何の影響も及ぼさなかったというところだけ、吉田さんに似合わず少し激してるんですよね。イギリスと日本という、どちらも何かトロトロと溶けたような、不可思議なところで育った人が、一個所明快にいえるのは、「アメリカ人はバカだなあ」ということなんだと思う。

丸谷 吉田さんが亡くなったあと、中村光夫さんと故人を偲ぶ話をしたんです。そうしたら中村さんが、「アメリカっていう国が存在することを、黙認してやるっていったような調子だったねえ(笑)」ぼくはとてもうまい表現だと思った。決して存在そのものを否定しようとはしないわけね。しかし、まあせいぜいよくて黙認という感じだったな。

吉田さんのアメリカ紀行を読むと、書いてあることは、ニューヨークに、何とかいうバーがあって、非常にいいバーである、こういうバーがある以上、アメリカ文化というものは、何か見こみがある(笑)そういう話なんです。

つまり一つのバーの付属品として、一国が存在するんだな(笑)。

山崎 いまふと気がついたんだけど、日本の戦後というのは、この精神で凌げたのかもしれませんね。つまり、吉田さんのお父さんである吉田茂という宰相をもって、日本は戦後のいちばんきびしい時代を凌いだわけでしょう。あの人が羽織、袴で白足袋をはき、そして葉巻をくわえてマッカーサーと会うというのは、まさにこの吉田健一の精神で、マッカーサーとやり合っていたんだなという気がした。

丸谷 なるほど、葉巻が、イギリス文化なんですね。

山崎 日本的伝統が羽織、袴でしょう。そして一方、アメリカ人にとって、頭のあがらないヨーロッパ文明、これが葉巻ですね。何かそれで生き延びたということを考えると、吉田健一という人の精神は、戦後日本を生かした一つの意地の固まりみたいなところがあるかもしれませんね。

まろやかな日本 / 吉田 健一
まろやかな日本
  • 著者:吉田 健一
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:-(221ページ)

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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
鼎談書評  / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:-(326ページ)
  • 発売日:1979-09-00

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初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1978年10月13日号

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