煩雑な日常の見直しに
仕事が一段落すると何日かだらだら本を読んですごす。『海からの贈物』(新潮文庫)は薄い文庫本だが、いまの自分の生活を点検するにはまたとない良い本だ。アン・モロウ・リンドバーグには夫と五人の子供がいる。ニューヨークの郊外に住んでいる。文筆家であり、家族の世話をし、市民としての義務を果たす。都会の主婦は忙しい。
新聞や雑誌やラジオは絶え間なく情報を送ってくるし、政治運動や慈善団体の呼びかけもある。それは望んだ通りの簡素な生活でなく、魂を死なせるような細切れの生活である。そこで彼女は海辺にやって来る。
初めのうちは、自分の疲れた体が凡(すべ)てで、航海に出て船のデッキ・チェアに腰を降ろした時と同様に、何もする気が起こらない。頭を働かしたり、予定通りに仕事をしたりする積りになる毎(ごと)に、海岸の原始的な律動の中に押戻される。寄せて来て砕ける波や、松林を吹き抜ける風や、鷺(さぎ)が砂丘の上をゆっくり羽搏(はばた)きしながら飛んで行くのが、都会や、時間表や、予定表の気違い染(じ)みたざわめきを消して、自分もその魔術に掛り、気抜けがして、ただそこに横になったままである。つまり、その自分が横になっている、海のために平らにされた浜辺と一つになるので、浜辺も同様にどこまでも拡(ひろ)がっている空っぽなものに変り、今日の波が昨日の跡の凡てを洗い去る。
うらやましいなあ。再び頭が目覚めるのは二週間目というのだもの。テレビやポケットベルやウォークマンやファックスに、もっと煩雑な生活を送らされる今日の私たち、一泊二日の温泉旅行しかできない私は悲しくなる。
(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆年は1993年頃)
生活が何かと気を散らさずにはおかない中で、どうすれば自分自身であることを失わずにいられるか。それがこの本の主題である。それを浜辺で練習するのだ。
不必要なものを捨てること。着るものも少し。食器も少し。選ぶことで頭を悩ますことがない。そして何も隠さずに話せる友達だけとつきあうこと。家の中を風と日光と松の木の匂いが通り抜けてゆく。
一人でいることも大事だ。孤独をおそれて、絶えまない音楽やお喋りで空間や時間を埋め、その騒音が止んでも、それに代わって聞こえてくる心の音楽がない生活を著者は厳しく批判する。一時間でも一日でも一週間でも、一人でいる練習が必要だ。
友情や恋愛、結婚、夫婦のことについても、明晰で示唆にとんでいる。
人と人との関係も、初めの歓喜の状態が同じ烈(はげ)しさをいつまでも失わずにいるということはあり得ない。それは成長して別な段階に入り、我々はそれを恐れずに、春の次に夏が来たのを喜んで迎えるべきである。
男と女が服従と支配でなく、所有と競争でなく、それぞれが成長する余地があり、お互いが相手の解放の手段になるという関係。そのためには二つの孤独がなければならないし、二人の間の無限の距離の自覚と、その距離を愛する心がまえがいる。相手を縛るのではなく、その全体を広い空を背景に眺めること……。
この本を読むと気が晴々する。周りの人間に対する「宥(ゆる)し」の感覚が生まれてくる。もちろんそれは自分が宥されることでもある。少なくとも、出たくない電話に出なくてもよいし、開けたくない封筒はそのまま捨てればいい。会合の誘いや余分な仕事を、一人でいたいから、と断ることもできるようになる。
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