作家論/作家紹介

森 茉莉『贅沢貧乏』 (講談社)、『私の美の世界』 (新潮社)、『ドッキリチャンネル』(筑摩書房)、『甘い蜜の部屋』(筑摩書房)、『マドゥモァゼル・ルウルウ』(筑摩書房) ほか

  • 2022/06/16

私にとっての森茉莉

1

今にもバラバラに崩れそうなケース入りの一冊の本がある。もう二十年以上前に出版された森茉莉の『贅澤貧乏』だ。新潮社版のもので、奥付けによると初版は一九六三年五月十日。私の持っているのは七刷目の一九七一年七月三十日発行のものだ。

七一年というと、私は大学を卒業して会社勤めをしていたころなのだが、どこの書店でどういう気持でこの本を手に取ったのだか、まったく思い出せない。その後の私と『贅澤貧乏』との決定的関係を考えると不思議なくらい、出会いのときの記憶がない。たぶん、それまで雑誌で森茉莉のエッセーを時どき読んでいて、淡い興味を持って、この本を買ったのだと思う。

とにかく、七一年のある日、私にとっては二十五歳になりたてのある日、私は『贅澤貧乏』を読み始めた。

牟禮魔利の部屋を細敍し始めたら、それは際限のないことである。

という書き出しで始まるこのエッセーは、明治生まれの人らしく画数の多い漢字と歴史的仮名づかいで埋めつくされていて、一見古風にとりすました文学趣味のように見えるのだが……とんでもない、私はたちまちにして、その一見古風なレトリックの裏にある、ほとんど「今世紀最強」と言っていいほどの清新はつらつとしたユーモアの匂いをかぎあて、まるで同い年の、若い、気の合う友人を発見したかのように喜んだ。

何しろこの人の手にかかったら、ガラスのびんにさしたアネモネも「アネモオヌ」と仏蘭西式に呼ばれなければならず、そのアネモオヌの花の色は、「魔利を古い時代の西歐の家に誘(いざな)つてゆき、花の向うの銀色の鍋、ヴェルモットの空罎の薄靑、葡萄酒の罎の薄白い透明、白い陶器の花瓶の縁(へり)に止まつてチラチラと燃えてゐる燈火の滴、それらの色は夢よりも弱く、幻よりも薄い、色といふものの影のやうにさへ、思はれる。魔利は陶然(うつとり)となり、文章を書くことも倦(ものう)くなつてしまふのだ」ということになる。

「八百圓で買つて八年間保(も)たせてゐる」という、他人から見れば安物のみすぼらしい燭台(スタンド)も、この人の手にかかったら「伊太利(イタリア)の美術館(ミュゼ)にある銅版畫のやうな色をしてゐる」がために、「羅馬やフィレンツェの街の敷石の上に轟いてゐた、馬車の轍の音」を思い出させるたいせつな財産なのである。

安物のオリーブ色の蒲団は、その色がボッチチェリの宗教画の色調を連想させるという理由で「ボッチチェリの蒲團」と命名されなければならないし、たかがアリナミンの小罎も「黄金(きん)色の口金の、四角な、宝石のような罎」と形容されなければならない。

という、ほとんど「強引」「乱暴」といっていいほどの夢想力の持ち主である。上に赤の字がつくほどの貧乏を、とほうもなく贅沢趣味の「夢の力」で、強引乱暴にねじ伏せている。非常に俗な言い方をするなら、「ものは考えよう」というやつだが、ここまで徹底して、自分の身辺を、世界を、「主観」で染めあげてみせた人間というのも珍しいだろう。

というだけなら、夢みがちな女にありがちなパターンだが、森茉莉の凄いところは、とんでもなくフワフワと夢想的であると同時に、現実(および自分自身)を醒めた目で突き離して観察する――という鋭い批評眼も持っているところである。夢と現実あるいは主観と客観のギャップにかんして、しっかりと自覚的である。そこから何ともとぼけた滑稽が生まれる。貧乏生活を「夢の力」で強引乱暴に自分好みの贅沢趣味で染めあげ、絢欄たる域にまで高めて楽しんでいる――そういう自分の強引乱暴さをニヤニヤ笑って、面白がっている。

冬の長い下着を絞る時の魔利の恰好は、ラオコオンの彫像よろしくで――蛇に巻きつかれて、腕、腰、胴をよぢり、空を仰いで苦悶してゐる三人の男の彫刻である――肱に引つかけてまだ餘つたのは肩にのせて、異様な形で渾身の力を振り絞るのである。

魔利は二三本の藁しべを束ねて、藁靴の紐の切れめに結びつけようと、空しい努力を續けながら、心の中で、言つた。《朕には藁靴の紐は結べないのだ。》と。その頃の魔利の生活は、すべてが笠置の山を出て山道をさまよつた、後醍醐(ごだいご)天皇に、似てゐた。

――などのくだりには大笑いした。上等の、品格ある、マンガである。文章で(しかも女の人の書いた文章で)こんなに格調高くとぼけたおかしみで笑わせてくれるなんて、画期的だ!

この『贅澤貧乏』一冊で一気に私は森茉莉のファンとなった。ずうずうしい言い方だが、「同志」を発見した気分だった。女友だちに貸して読ませ、ちょっとした「森茉莉ごっこ」に走った。どうってことない黄色を「カナリア色」だの、ベージュを「フランス色(できれば漢字の仏蘭西色の気持で発音したい)」と呼んで、クスクス笑い合うといった遊びである。

残業でくたくたになって帰って来て、ベッドにもぐり込み、森茉莉の本(当時は新潮社版の『私の美の世界』『枯葉の寢床』)を繰り返し読むのは、まさに「至福のひととき」だった。当時の私は、いわゆる全共闘運動の中で自分の左翼学生体験をどう処理していいかわからず、隠遁気分で「平凡なOL」というのをやって気持をごまかしていたが、それでも、ほんのかすかには、「いったい私は何者なんだろうか、何者になれるのだろうか」と思い悩むところは残っていたのだった。

その後すぐに会社勤めを辞め、何のあてもなくヨーロッパ貧乏旅行をして、帰って来てからは雑誌ライターとしての仕事をポツポツと始め、二十九歳と十一カ月という時に家を出て一人暮らしを始めた。赤坂と言えば聞こえはいいが、フロなし六畳一間の安下宿だった。高校時代からの親友は、そのみすぼらしい部屋におさまっている私を見て、「何とも言えない、辛い気分になった」そうだ。――というのは、最近になって初めて聞かされて、ビックリしたことで、当時の私は「これで新生活が始まる!」とハレがましいくらいの気持でいたのだった。

自分ではあんまりはっきりとは意識していなかったけれど、二十五歳のとき『贅澤貧乏』と出会わなかったら、私の人生もだいぶ違ったものになっていたかもしれない。私はもひとつ欲がなく、愛想もよくないので(というより、やっぱり才能がなかったんだろうが)、仕事に恵まれず貧乏生活がえんえんと続くことになるのだが、それで絶望的になるということはなかった。けっこうのんきに楽しい気分で過ごしていた。

【文庫本】
贅沢貧乏 / 森 茉莉
贅沢貧乏
  • 著者:森 茉莉
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(316ページ)
  • 発売日:1992-07-03
  • ISBN-10:4061961845
  • ISBN-13:978-4061961845
内容紹介:
華麗な想像力、並はずれた直感力と洞察力。現実世界から脱却して、豊饒奔放に生きた著者が全存在で示した時代への辛辣な批評。表題作「贅沢貧乏」「紅い空の朝から…」「黒猫ジュリエットの話」「気違いマリア」「マリアはマリア」「降誕祭パアティー」「文壇紳士たちと魔利」など豪奢な精神生活が支える美の世界。エッセイ12篇を収録。

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【単行本】
贅沢貧乏 / 森 茉莉
贅沢貧乏
  • 著者:森 茉莉
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:-(187ページ)

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2

私は今でも忘れられないのだが、年号が一九八〇年になったとき、「ああ、これでやっと七〇年代とも手が切れる」とすがすがしい思いがした。たかが年号が変わるということが、あんなにありがたく思えるなんて初めてのことだった。

非常に簡単に整理して言ってしまうと、そのくらい一九七二年春の連合赤軍の集団リンチ殺人事件のショックは大きかったのだ。私はそれ以前にすでに左翼的なイデオロギーをだいぶ崩壊させていたけれど、それでもまだいろいろと未練や迷いがあった。しかし、あの集団リンチ殺人事件で、決定的に「負けた」と思った。「私の思想はどこかでまちがっていました」と認めざるを得ないと思った。近頃の事件で言ったら、私の頭の中は大地震にあった奥尻島の街なみのように、何もない、ただのガレキが散乱するところのようになってしまったのだというのは大げさだが、当時はほんとうにそういう心境だったのだ。

ガレキの一つ一つをひろい出し、「これは私の言葉。この言葉にだったら責任持てる。これにだったら裏切られても本望だ」というものだけを残して何とか掘立小屋のようなものを建ててゆく――。私にとって七〇年代というのは、そんな、うっとうしい時代だったのだ。

まるで失語症におちいった気分だったから、森茉莉のエッセー、とくに『私の美の世界』(私の読んでいたのは一九七一年刊の七刷目の新潮社版)の中におさめられた「反ヒュウマニズム礼讃」には圧倒されたし、大いに励まされた。

森茉莉は、この三十ページにわたる長いエッセーの中で、世の中にはびこるあらゆるニセモノ(ニセモノ正義、ニセモノ知性、ニセモノ情緒、ニセモノ蒙華……)にたいして、まさに「手当たりしだい」といういきおいで罵倒しまくっている。

この世の中は贋ものヒュウマニズムに満ち満ちていて、くる日もくる日も、活字のあるところには〈ほほえましい〉とか〈涙ぐましい〉とか、〈チャリティーショウが開催され〉とか、〈厚生大臣代理、何々氏が来場〉とか、〈何々女優、何の何子氏も賛同、言葉少なに挨拶〉とか、〈越冬隊いよいよ帰国、出迎えの家族と微笑み合う何々隊長〉……(略)……とか、ありとあらゆる美談、美挙、美句、美麗が眼につくが、こういう、安っぽいヒュウマニズムでほほえましがったり、目がしらを熱くしたり、すがすがしがったりしている連中が、私は嫌いである。

(週刊誌に取りあげられているような)下らない事件が面白いということがどうして恥辱なのか? 私にはわからない。本当の美人は美人ぶらないし、本当のインテリはインテリぶらないが、所謂インテリ女優はインテリ性を強調するし、名士なのを自慢にし、文化人らしい地味な洋服を着、ついには家の中の、誰もいないところでも文化人のふだん着を着、文化人の顔になってしまうのである。

「何故社会や文壇のヒュウマニズムが立派でないか、恐れ入れないかというと、ひと口に言うと安っぽいからである。大きさがなくて狭いからである……(略)……もし本もののヒュウマニズムなら、私が狭苦しいと思うはずがない。私のようなへんな奴が楽々と入れるのが、本とうのヒュウマニズムである。

私は最初の一句から最後の一句にいたるまで同感共感の拍手を送りながら、読んだ。それと同時に、このモリ・マリという人の、「私」というものにたいする確信の強さに圧倒された。ここまで「自分」を信じられるなんて凄いなあ。こわいもんなしだなあ。まいったなあ、この人はまったくもって、全然、まるっきり、イデオロギーの人ではない。自分の「好き嫌い」、ほとんどそれだけを頼みにして、ここまで書いているのだ。私はこの数年、「好き嫌い、つまり〈感性〉というものだけで何か書けるものかどうか、どれだけのものが書けるか」ということを考えて来たけれど、この人はここまで書いているのだ。「好き嫌い」だけで押し通しているのに、そこらの社会時評より数段面白く説得力がある。そこが凄い。それから何よりも、文章の間から書いている当人の精神の躍動感やら解放感やらがひしひしと伝わって来る。文章の向こうに、モリ・マリという妙なイキモノが思うぞんぶんにはね回っているのが、見えて来る。そこが面白い。

私もいつの日か、このくらい大らかにそして強力に「私」というものを、自分の「好き嫌い」というものを信じられるようになるのだろうか。それができないうちに私が何か書いても、たぶん面白くも何ともないだろう。説得力も迫力もないだろう。正しいかどうかなんて関係ない、「私はこう思う。何が何でもこう思う。世間一般、人間一般にとってはどうだか知らないが、これが私にとっての〈真実〉なのだ」――そこまで自分を追い込んで、見きわめつけたところからでなかったら、書く意味はないだろう。

八〇年代に入って、何かツキモノが落ちた気分で女の子雑誌の仕事をしていたけれど、とうていモリ・マリ的自信はなかったので、無署名原稿(「今欲しいインテリア雑貨50」とかいったページの説明文(キャプション)書きとか、有名人の対談のマトメとか)を書くことに職人的な喜びを見出していた。「自分を押し出す」ことよりも「自分を消す(=時代の風景そのものと化す)」ことのほうが自分の性(しょう)には合っていると思っていた。

なあんて言うのは、ちょっと偽善的すぎるかもしれない。はっきり言って、世の中に氾濫しているたぐいの女のエッセー――毒にも薬にもならない遠回しの自己陶酔的エッセーを書くくらいだったら、雑誌の無署名原稿を書いているほうが、私にとってはずうっと恥ずかしさの少ない、かっこ悪くない、マシな行為のように思えたのである。

だから、八三年に知り合いの編集者から「書きおろしでエッセー集を出さないか」という話があったときは、大いに迷った。彼はその前年に共通の知人である林真理子に『ルンルンを買っておうちに帰ろう』を書かせた人で、私をその“第二弾”に仕立てあげようと考えたのだった。

何か、自分の心にはっきりと決着をつけないうちに、書きおろしを始めてしまい、四苦八苦したあげく、何とか一冊の本(『ウテナさん 祝電です』という本で、今は新潮文庫におさめられている)にはなったが、その後一年余り、自己嫌悪の泥沼であがくことになってしまった。「私」というものにたいして、モリ・マリの十分の一も確信を持てないでいたのに、ついつい署名ライターとしての道を踏み出してしまった。もうこうなったらあと戻りはできない。「私」を信じるしかないのではないか、自分の「好き嫌い」に執着しきってみるしかないではないか……。

そうだ、重要なことを書き落としていた。その初めてのエッセー集を出す少し前に、私はある女の子雑誌の仕事にかこつけて、森茉莉にインタビューしていたのである。一部ファンの間では“東京の秘境”と呼ばれていた、あのアパルトマンの一室で森茉莉と会っていたのである。たぶん一生忘れられない、あの奇妙な一時間――。

【文庫本】
私の美の世界 / 森 茉莉
私の美の世界
  • 著者:森 茉莉
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(336ページ)
  • 発売日:1984-12-24
  • ISBN-10:4101174040
  • ISBN-13:978-4101174044

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【単行本】
私の美の世界 / 森 茉莉
私の美の世界
  • 著者:森 茉莉
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:-(223ページ)

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3

森茉莉さんに会ったのは一九八一年のことだった。

と書き始めて、あらためて驚いてしまった。そうか、あれからもう十二年もたってしまったのか、なんと、あっけない歳月だろう。悪趣味な冗談のようである。

当時の私はフリーランスの編集者として、おもに女の子雑誌にたくさんの「無署名原稿」を書いていた。自分の名前で何か書いてみようという気持は、ほとんどなかった。いろんな意味で自信がなく、「自分を押し出す」ということよりも「自分を消す」、つまり時代の風景そのものと化すことのほうが、楽だったし、少しは誠実のように思っていたのだった。

ある女の子雑誌で「淑女について」という特集のために、有名人数名からコメントを頂戴することになった。今にして思えば、のちの“お嬢様ブーム”を先取りするような企画だったが、こういうテーマでおなじみのマナー評論家だのパーティ文化人だのにコメントしてもらっても、カタチだけのいんちき淑女――三島由紀夫の言葉を借りれば「おちょぼ口の上品」の女が生産されるだけでつまらない。ボロ家に住もうが、ジーンズはいてあぐらをかこうが、「くそっ!」なあんて口走ろうが、何か揺るぎない淑女の心――というのもあるんじゃないだろうか。例えば、森茉莉の小説『ボッチチェリの扉』のヒロインである麻矢は、台所でスリップ一枚の姿で牛乳を立ちのみしていたりするが、それがまた西洋の健やかな少年のように見えてしまうという女の子である。私はそういうのがほんものの「淑女」だと思う。

というわけで、電話で森茉莉さんにインタビューを申し込んだ。断わられるのではないかとおびえたが、「五時からテレビの『銭形平次』の再放送を見るの。四時から一時間だけね」という条件で承諾していただけた。

どきどきしながら、世田谷の森茉莉さんの「アパルトマン」へと向かう。途中で花屋をのぞいたら、うまいぐあいにアネモネがあったので、小さな花束を作ってもらうことにした。何かのエッセーで「アネモオヌ」と書いていたのがおかしかったので(何しろ、平凡なピンクも薔薇色、すすけた茶色も仏蘭西色と書いてしまう人だから……)。私は花束を片手に頭の中で「アネモオヌ、アネモオヌ……」とつぶやきながら、「アパルトマン」を探す。

初めて会う森茉莉さんは、大きな、灰色の、猫のようだった。頭部に水玉(茶色の地に白い水玉)のスカーフをかぶっていて、それが妙なぐあいにずれていた。

室内に入ると、すぐにダイニング・キッチンがあって、最初(五分くらい)はそこのソファに座って話していたのだが、「やっぱりここは寒いから」と奥の寝室に通された。

例の伝説的な部屋である。知り合いの森茉莉ファンの編集者たちが「東京の秘境」と語っていた部屋である。しかし、私はひとのプライバシーを詳述するほど非礼な人間ではない。読者のかたがたは『贅澤貧乏』を熟読して、そこから類推していただきたい。

私は、ただ、①壁にV9時代の長嶋茂雄のポスターが貼られていたこと、②「そこにかけて」と指差された先が、本の山だったこと、③ベッドにいきなり寝そべっている有名人にインタビューするのは私も初めての経験だったこと――この三点だけ報告するにとどめたい。

一時間のうちに人間が最大限にしゃべるとこのくらい――というくらい、森茉莉さんも私も凄いイキオイでしゃべった。案外と話の内容は忘れてしまっているのだが、一つだけ、「そのネックレス、いいわね」うんぬんと、その日の私のファッションをほめてくれたことはハッキリとおぼえている――というのが我ながら、ちゃっかりしている。

フト気がついて時計を見ると、もう約束の五時近い。「あのー、五時ですけど。銭形平次ですけど」と言うと、「あ、そうそう」と言ってテレビをつけたそのときには、すでにして私など眼中にない。いきなりの無関心。

普通ならここで傷ついたり怒ったりするのだろうが、私は逆だ。「うーん……さすが森茉莉。私をしのぐわがままというかエゴイストというか。ほんとうに猫みたいな人。負けました」なあんて、ますます敬愛の気持を深めたのだった。

そうそう。その日はちょっとした事件があった。バスに乗って帰ろうとしたら、財布がないことに気がついたのだ。花屋に忘れたのだろうか、それとも森茉莉さんのあの部屋に……?! 貧乏ライターの身にはちょっとした金額だったが、何か「記念すべき一日」のしめくくりとしてはこれもまた一興、てな気分になってしまって、探索はしなかった。やっぱりヘンな一日だった。

私は『週刊新潮』連載の「ドッキリチャンネル」を毎週楽しみにして読んでいたので、八五年二月に連載が終わったときには、ガッカリもしたし、森茉莉さんの健康状態が心配にもなった。『サンデー毎日』の未知の編集者から「エッセーを連載しないか」という話をいただいたのは、それから三カ月後のことだった。

ありがたい話だと思ったが、辞退しようと思った。人気女優のエッセーがそのうち終了する、その後任にということだったのが気になったからだ。女の人らしいフワーッとした身辺雑記は、私には書けない。私が書きたいと思っているのは、ちょっと違う。私にとっての「生活」、私にとっての「喜怒哀楽」、私にとっての「人生」というのは、テレビを見たり映画を見たり本を読んだりコンサートに行ったりというのが一番の核心にあって、他のこと(結婚、恋愛、家族、金銭……といったようなこと)はどうでもいいとは言わないが、とくに活字にするほどの執着はないのだ。だからエッセーと言っても、批評的な匂いの強いものになってしまう。そう……森茉莉の「ドッキリチャンネル」のような感じの。あれはテレビの話が中心だけれど、もう少し枠を広げて芸能・娯楽・文化・風俗全般にわたる、エッセーとも評論ともつかないスタイルのものを書いてみたい。「できるかどうかわからないけれど、私が書きたいのは、そういうものなんです。それがそちらの要望に合わないとしたら、お断わりしたほうがいいんじゃないかと思うんです」

緊張してそこまでしゃべったら、その編集者は意外にもあっさりと「あ、いいですよ。面白そうじゃないの」と言うので、いきなりスッと肩の力が抜けてしまった。

あとで聞いた話によると、試験的に半年ほど連載してみて、どうしようもなかったら、そこで打ち切る予定だったそうだ。幸いにも、もう何年も連載が続いている。

「ドッキリチャンネル」と出会わなかったら、私は「エッセーとも評論ともつかないスタイルのもの」を書きたい、それだったら書けそう、などとは思いつかなかっただろう。自分のスタイル(少しはあると思っている)を生み出すことはできなかっただろう。エッセイストではなくてコラムニストなどと名乗ることもなかっただろう。

『サンデー毎日』の連載が始まった二年後、森茉莉さんは亡くなった。大新聞が見出しに「孤独な死」「孤独の死」「ひっそり死」などとしているのが、非常に不愉快であった。死後二日たって発見されたことなど、どうでもいいことではないか。同じ「孤独」について語るなら、昭和二十六年の「夢」というエッセーの中で表白されたような孤独について、「生」の恐怖について語るべきではないか……と。

十二年前のあの日に、私の背中のあたりに森茉莉パワーが取り憑いた――と、私は極力バカになって、信じ込むことにしている。

【文庫本】
ベスト・オブ・ドッキリチャンネル / 森 茉莉
ベスト・オブ・ドッキリチャンネル
  • 著者:森 茉莉
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(374ページ)
  • 発売日:1994-12-01
  • ISBN-10:448002932X
  • ISBN-13:978-4480029324
内容紹介:
週刊新潮に1979年から1985年にかけて連載、好評を博したが、著名人は戦々恐々だったとか。そのテレビ評に感動し、自身コラムニストの道を歩んでいる中野翠による精選ドッキリチャンネル。コンパクトなサイズで楽しめる毒舌ワールド。

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【単行本】
ドッキリチャンネル   森茉莉全集第6巻 / 森 茉莉
ドッキリチャンネル 森茉莉全集第6巻
  • 著者:森 茉莉
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(753ページ)
  • ISBN-10:4480700862
  • ISBN-13:978-4480700865
内容紹介:
「遠慮会釈なく遣っつけるが、栄枯盛衰が左右されることがないのだから諒とされたい。」怒りのマリアのテレビ評。

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4

自分の中の「モリ・マリ史」のようなものを書いて来たけれど、一つ、意識的に書き落として来たことがある。それは小説――とくに『甘い蜜の部屋』のことである。

新潮社版の小説集『恋人たちの森』『枯葉の寢床』を読んだのは、もう二十年以上前、たぶん一九七一年か七二年のことだったと思う。もともと小説好きというほうでもなかったが、その頃はとくに「きちんとした名前の人ばかり出て来る普通の小説」というのが全然読めなかった。電話帳からピックアップして来たような具体的な名前の人物が出て来ただけで何か念入りな身の上話を読まされるかのようで、白けてしまい、倉橋由美子や安部公房のように人物名が「S」だの「L」だの「Q」だったりすると、物語の世界にすんなり入り込める感じがして、ホッとするのだった。森茉莉の小説の登場人物たちの名前はそこまで抽象的ではないけれど、「レオ」だの「ギラン」だの「半朱(ハンス)」だの、やっぱりちょっと「普通の小説」のようではない。

男同士の恋愛というのは少し変わっていたが、それはたんに恋愛心理や官能性をできるだけ世俗的な規範から切り離して純粋化するための一つの設定(しかけ)にすぎないような感じがした。眉をひそめる気分にも全然ならなかったし、「待ってました、美少年もの!」という気分にもならなかった。ただもう、きれいでこわくて濃密な、(語の厳密な意味において)小説(ロマン)というものを読んだなあという満足感でいっぱいになったのだ(森茉莉はジャン・クロード・ブリアリとアラン・ドロンを見て『恋人たちの森』『枯葉の寢床』を書いたそうだが、もし、当時のアラン・ドロン以上に「女の分子」を魅力的に感じさせる美人女優がいたとしたら、同性愛小説にはならなかったのではないだろうか。非難するにしろ讃美するにしろ同性愛という設定自体に執着するのは、私には理解しがたい態度に思えるし、たぶん森茉莉の本意でもないだろうと思う。まあ、人の書いたものをどう読もうと勝手だが)。

森茉莉の恋愛小説の中で、私が一番好きなのは『ボッチチェリの扉』だ。本書(『森茉莉全集』)解題によると「自身に根ざした心理小説風スタイルから一変し、初めてフィクションとして書いた小説」だそうで、のちの小説に較べるとレトリックは「絢爛」の域にまでは達していない。『恋人たちの森』『枯葉の寝床』『甘い蜜の部屋』が貴族趣味の恋愛小説だとしたら、この『ボッチチェリの扉』は中産階級の恋愛小説だ。しかし、それ故に、耽美一色ではない森茉莉の魅力――自然なおかしみとか辛辣さとかとぼけた味がよく出ていて、何度読み直しても、楽しめるのだ。

とくに、物語の舞台である古い邸と老女・絵美矢の描写、それから、時どき『賛澤貧乏』の森茉莉の顔がのぞくところが面白い。

ラストは急転直下、「御約束」のごとく凄いことになるわけだが、この物語の主人公である麻矢と亮太の間には、特別これといった障害も波瀾もない。しぶしぶながらも母親の絵美矢も認めていて、まずは周囲に祝福された関係である。

にもかかわらず、二人が知り合ったときから、何か、いつも不安な感じがつきまとっている。

「悪魔の風みたい。」
麻矢はふと、不安な気持がした。亮太の傍に、もつと寄つてゐなくては、不安なやうな、気が、したのである。「寒いでせう?」
亮太が言つた。一寸の間、男の声を聴いてゐたやうな麻矢は、男の顔を見上げた。背の高い、何処か野獣のやうな荒さのある中に、やさしい、柔かな神経が通つてゐる男である。
「歯がカチカチ言ひさう。」
亮太は麻矢を見下ろすやうにして、微笑つた。親しい、体だけではなくて、心が直ぐ傍に居る人の微笑ひである。

麻矢を見てゐた眼を伏せた亮太の顔は、情熱に満ちてゐて、例の、むつと膨れた人のやうな結び方をした口元には、切ないやうなものが、感ぜられる。亮太は麻矢が自分の傍から離れる度に感じる空虚感を、今でも感じてゐる。(麻矢は自分の胸の中だけにゐる人間なのだ。少しの間だつて、離れてはいけないのだ)。そんな理窟のない、理不尽な想ひが、麻矢を一度抱いて以来、亮太を襲つてゐるのである。

といった描写には唸ってしまう。ふだんの言葉を使いながら、そして、何気ない場面でありながら、これだけ濃密な感情を描き出せるなんて、やっぱり凄い人だなあと思う。

自伝的エッセーなどから見る限り、けっして恋愛体験は多くないはずだが、この人はいったいどこからこんな感受性を獲得してしまったのだろうと不思議に思われる。

『甘い蜜の部屋』は雑誌連載中から読んでいたけれど、完結して一冊になったのを読んだら、何と言うか、森茉莉が精魂こめて調理した「満漢全席」で、読み終わったときはこちらもすっかり精根尽きたという感じになってしまった。いずれ、一度はきちんと書かなくてはいけないと思っているのだが、あの小説にかんしてはまだ(といいながら、もう二十年近くたってしまったのだが)うまく感想をまとめられないでいる。ただ、言えることは、あの小説を読んだおかげで、私は大半の「恋愛小説」が楽しめなくなってしまったのだ。私にはあんまり貴族趣味はないのだが、やるならここまでやってほしい、ハイカラ趣味もやるならここまでやってほしい、美少女趣味もやるならここまでやってほしい――という、「ここまで」を見せつけてくれたような小説だ。ぽおっとした丸顔の、あの森茉莉の、どこからこのような肉食性の濃厚な官能性がわき起こって来るのか、やっぱり不思議でたまらない。

『甘い蜜の部屋』が完結して、やがて森茉莉は『週刊新潮』に「ドッキリチャンネル」を連載し、それが最後の仕事になった。私はこの「ドッキリチャンネル」を読んで、私もこういう批評的エッセーを書いてみたいなどという野望を燃やしてしまったのだが、森茉莉にとっては、それは『甘い蜜の部屋』という一大フィクションを書きあげたからこそ気楽に書けた余技だったに違いない。

私は「ドッキリチャンネル」を読むたび、「なんて素敵に乱暴なことが書けるのだろう。自分にかんする、この確信の強さはかえって痛快だ。たとえまちがったことを書いていても(何しろ田中康夫と村松友視をまちがえていて、その上で繰り返し悪口を書いているという乱暴さ)、笑って許されるような気がする……私も早くこんなふうに、笑って許される人になりたいものだ」などと思っていたわけだが、とんでもない話だ、森茉莉はその前に『甘い蜜の部屋』を書いていたのだった。彼女の自信は、けっして生来のものばかりではなかったはずである。

「笑って許される人」への道ははるかに遠い。唯一の慰めは、森茉莉は私以上にデビューが遅かったという事実だけだ。

【文庫本】
甘い蜜の部屋 / 森 茉莉
甘い蜜の部屋
  • 著者:森 茉莉
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(544ページ)
  • 発売日:1996-12-01
  • ISBN-10:4480032037
  • ISBN-13:978-4480032034
内容紹介:
少女モイラは美しい悪魔だ。生まれ持った天使の美貌、無意識の媚態、皮膚から放つ香気。薔薇の蜜で男達を次々と溺れ死なせながら、彼女自身は無垢な子供であり続ける。この恐るべき可憐なけものが棲むのは、父親と二人の濃密な愛の部屋だ-。大正時代を背景に、宝石のような言葉で紡がれたロマネスク。

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【単行本】
甘い蜜の部屋 森茉莉全集 第4巻 / 森 茉莉
甘い蜜の部屋 森茉莉全集 第4巻
  • 著者:森 茉莉
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(482ページ)
  • ISBN-10:4480700846
  • ISBN-13:978-4480700841
内容紹介:
十年の歳月をかけて描いた父と娘の濃密な世界。泉鏡花文学賞受賞、唯一の長編小説。(「甘い蜜の部屋」)。

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眠れない夜。『マドゥモァゼル・ルウルウ』を読む。

一九七三年に薔薇十字社から出版されたもので、この二十年間に何度も読んでいるので、そうとう傷んでいる。この薔薇十字社版は、黄色の地に黒い葡萄の木(?)が影絵で描かれているケースに入ったもので、中身の本を開くと全ページの地に同じ影絵が淡いラベンダー色で描かれているという、なかなか凝った造りのものだ(装丁は、初期『アンアン』のアート・ディレクターをしていた堀内誠一さんだ)。

私はこの本を読むと、不思議な、安心な気持になって、眠りにつくことができる。一八八八年のルウルウ、いやフランスの前世紀の作家ジィップと、明治生まれの森茉莉と、私が一直線につながった感じ、時間も空間も飛び超えて一体になった感じ――と言ったらおこがましいので少し控え目に言うと――素敵におてんばなものにたいする共感の笑みを交わし合っているような気持になる。百五十年近く昔のフランスで生まれた人を、すぐそこにいる人のように感じる、この幸福。私は茫漠とした時の流れに抱かれたような、大きな、安らかな気持になって、眠る。

森茉莉はこの本を翻訳するにあたって、著者のジィップにこんな手紙を書いた。「私はルウルウを愛しています。私にはルウルウが見えます。ルウルウは今どこにいるのですか?あまり貴君(あなた)の表現が素晴しいので私にはこの戯曲には書いてない場面のルウルウが見えます」。

私にもルウルウが見える(ような気がする)、何度も見た映画のように、ルウルウもそれからプパもリキキもムシュ・ドルステェルも片耳の犬のトックでさえも……見える(ような気がする)。私の頭の中にしっかりと住みついている。不滅のキャラクターだ(そう言えば……昔、雑誌『装苑』にイブ・サンローランが「ルウルウ」というマンガを連載していたことがあった。このルウルウもおてんばでいたずらな女の子だった。彼もまたジィップのルウルウにまいってしまった一人なのだろうか)。

薔薇十字社版が出た数年後、出帆新社から全然違った装丁で『マドゥモァゼル・ルウルウ』が出版された。迷わず、これも買った。森茉莉の本はすぐに絶版になってしまうという恐怖を持っていたからだが、今回の『森茉莉全集』にはこの『マドゥモァゼル・ルウルウ』も収録されるというので、私は大いに喜んだ。これで完璧。磐石の構えというものである。

【単行本】
マドゥモァゼル・ルウルウ / ジィップ
マドゥモァゼル・ルウルウ
  • 著者:ジィップ
  • 出版社:薔薇十字社
  • 装丁:-(225ページ)

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マドゥモァゼル・ルウルウ / 森 茉莉,ジィップ
マドゥモァゼル・ルウルウ
  • 著者:森 茉莉,ジィップ
  • 出版社:出帆新社
  • 装丁:-(225ページ)

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マドゥモァゼル・ルウルウ 森茉莉全集 第8巻 / 森 茉莉
マドゥモァゼル・ルウルウ 森茉莉全集 第8巻
  • 著者:森 茉莉
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(771ページ)
  • ISBN-10:4480700889
  • ISBN-13:978-4480700889

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ところで。私の頭の中にはぼんやりとだが、森茉莉地図のようなものが出来あがっている。

森茉莉を一つの森に見たてて(べつだん苗字に引っかけて森というわけではない)、その東西南北の四つの極点に代表的作品を配置してみる。東西の横軸には小説作品、南北のたて軸にはエッセー作品を置いてみる。

まず、小説作品では『甘い蜜の部屋』である。”耽美作家”としての森茉莉のすべてが結晶されている作品だから、これを東の極点に置く。とした場合、その対極にあるのは、翻訳だが『マドゥモァゼル・ルウルウ』だろう。モイラとルウルウ、この二人の少女はまるっきり異なったタイプのようだが、同じ森のあっちとこっちで、ちゃんといっしょに生きている。

エッセー作品では一つのスタイルの確立という意味で『贅澤貧乏』。これを南の極点に置くとしたら……その対極にあるのは、おそらく、『父の帽子』の中の「夢」ではないだろうか。

「夢」は、昭和二十六年、森茉莉四十八歳のときに書かれたエッセーである。初めて雑誌から原稿依頼を受けたのは、その八年後であって、四十八歳でも、まだ“デビュー”はしていなかった。

「私には何一つとして確固とした信念が、無かつた。私の思考は一つの『夢』のやうなものである。それだから私の人生もまた、言つて見れば一つの『夢』の一種で、あつた」

という書き出しで始まるこのエッセーは、のちの森茉莉の文章になじんだ者から見ると、やけに生硬で直截で、何と言うか……むきだしの感じを受ける。しろうとくさい。しかし、いや、それ故にこそ、そこで語られている不安や恐怖の感覚は、切実に私の心に突きささる。

「現在が無いといふ事から来る心細さ」「いつも心の裏がはに現実感を裏切る、ひらひらとしたものがある」「飛び去る時刻(とき)の速さが現在を無くし、不安を胸に置く」「何ものかに距てられた夢のやうな感覚」……。それは借り物の殺風景な言葉で言えば「実存的恐怖」というものだろうか。「現在が無い」という、このあまりにも端的に、こわい言葉!

芝居を見てゐたり映画を見てゐたりする時、未里の心は不思議に柔いでゐた。殊にあの映画の世界。影と光の、速い、動く世界は未里の心持にどこかぴつたりとしたものを感じさせ、未里を落着かせた。

というあとの数十行は、すばらしい「映画論」になっていると私は思う。少なくとも私にとっては、そうなのだ。私がなぜ映画に惹かれたか、映画に何を求めているのか、映画が私の何を救ってくれているのか――をすっかり代弁してもらったような気がする。

未里が現実の世界と言はれてゐる世界に住んでゐてさうしてそれを恐れるのは、その世界が影に過ぎないと、思はれるからのことで、あつた。事実の世界が束の間に飛び去る時刻(とき)に刻まれて、どこともなく消え去る影に過ぎないと、思はれてならないからのことで、あつた。否定することの出来得ない現実と、『影』のやうに思はれてならない心との間を亡霊のやうにさまよつてゐる不安な心が、その不安な漂ひが、未里の胸をたよりないひらひらしたもので一杯にしてしまふからのことで、あつた。映画は明瞭(はっきり)と『影』である。それが未里には楽である。それがむしろ嬉しい。映画館の中で未里はたしかに幸福で、あつた

私はこの一節に触れたとき、私の映画への思いが、その核心が、突然ピタッと焦点が合ったように見えて来たように思った。そうなのだ。私を映画へ駆り立てているもの――それはある種の不安なのだ、恐怖なのだ。

「私の人生もまた、言つて見れば一つの『夢』の一種で、あつた」と書いた森茉莉の、その「夢」という言葉にこめられた苦しみが、私の心をしめつける。

しろうとっぽい文章だけれど、しかし、こうして自分の心の奥底を正面から見つめ、言葉に定着した時点から、森茉莉は、「怪物」への道を歩み始めたのだと思う。

【文庫本】
父の帽子 / 森 茉莉
父の帽子
  • 著者:森 茉莉
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(228ページ)
  • 発売日:1991-11-01
  • ISBN-10:4061961519
  • ISBN-13:978-4061961517

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【初出】『森茉莉全集』月報、筑摩書房
【文庫本】
個人全集月報集 武田百合子全作品 森茉莉全集 /
個人全集月報集 武田百合子全作品 森茉莉全集
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(256ページ)
  • 発売日:2016-10-08
  • ISBN-10:4062903261
  • ISBN-13:978-4062903264
内容紹介:
武田泰淳の妻・武田百合子と、森鴎外の娘・森茉莉。それぞれの全集の月報から感じとる、今なお魅力的な二人の女性の生き方。

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【この作家論/作家紹介が収録されている書籍】
アメーバのように。私の本棚  / 中野 翠
アメーバのように。私の本棚
  • 著者:中野 翠
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(525ページ)
  • 発売日:2010-03-12
  • ISBN-10:4480426906
  • ISBN-13:978-4480426901
内容紹介:
世の中どう変わろうと、読み継がれていって欲しい本を熱く紹介。ここ20年間に書いた書評から選んだ「ベスト・オブ・中野書評」。文庫オリジナルの偏愛中野文学館。

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