自著解説
『吸血鬼幻想』(河出書房新社)
吸血鬼入門
毎年、夏が近づいてくると、かならず判で押したような内容の電話が掛ってくる。「こちらは××社ですが、七月号に妖怪特集を企画しております。ついては先生に吸血鬼の項をご執筆願えませんでしょうか」
商売繁盛で結構な話ではあるが、それでもお申し出には大概は応じかねている。いまから十年程前に『吸血鬼幻想』という本を書いた。吸血鬼に関するあれやこれやを虚実とり混ぜて書いたエッセイ集である。それを思い出して編集子が声を掛けて下さるのだが、当方としてはあらかた種を出しきって今更書くことはないので、ご辞退申し上げるのである。
それでも夏が近づくとやはり、深夜、奇妙な電話が掛ってくる。
「もしもし、種村さんですか?こちら根本です。あのねえ、吸血鬼のことを知るにはどんな本を読んだらいいのかしら?今うちの娘が吸血鬼に凝ってんのよ。うん、いや、小説のドラキュラとかそういうんじゃなくて、生きていた吸血鬼の事実を知りたいらしいの」
声は中年女性のそれである。弾んだ、馴れなれしい口調からすると旧知の人らしい。「根本」という名の旧知の女性を頭のなかの抽斗から引っ張り出そうとしてみるが、うまく行かない。何しろ深夜といえば、こちらはもうウイスキーが身体の八分目程まではだぶついているのが常態である。過去に起った不吉な女性関係のあれこれが明滅する。ヤバイぞ。まだ未整理のやつがあったかな。
単刀直入に「あのこと」を申し立てているのではなくて、吸血鬼をダシにしているところが曲者である。それも小説の吸血鬼ではなくて、生きている吸血鬼の「事実」を知りたいとおっしゃる。そちらは「あのこと」を闇に葬ったおつもりでも、吸血鬼はたえず墓のなかから蘇って仇敵の深夜を襲うのだ、という意味であろうか。それに娘さんが絡んでくるのもへんといえばへん。もしかしてこちらの知らないところで、血液型その他においてこちらの血統を証明することのできる年少者がすくすくと育っているとしたら、それがいつのまにかにこにこ笑いながら目の前に立ち現れてくるとしたら、これはもう万事休す、ではないか。
「ム、ムスメさんですか。娘さんはおいくつになられましたか」
「十五歳。高校生よ」
「えッ、もうそんなに大きくなった?」
「身体ばかり大きくなって、ネンネェで。今電話に出すわね。本人とお話しになった方がいいでしよう?」
「まァ、ミ、ムム、メ、モ」
目の前が暗くなり、身体中からスーッと血の気が失せて行く。吸血鬼専門家として断言してもよいが、これは吸血鬼に魅入られた不動金縛りの状態である。蛇に睨まれた蛙のように恐怖のあまり身動きもできないが、それでいて妙に被虐的な快感がないではない。電話の向うで話者が変わった。今度はロリータのように甘く稚い少女の声である。
「ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』やなんかは読んだんですけどォ、吸血鬼って本当にいたんでしょう? 今もいるんですか?」
「今も? ん、まァ忘れた頃にやってくるっていうからね」
「女の吸血鬼もいるんですか?とても憧れてるんです」
「うん、女のもいるよ。シェリダン・レ・ファニュという人が『女吸血鬼力ーミラ』を書いている。でも、君が読むのはまだ早いな。何しろ吸血鬼病ってのは伝染するからね。本当に女吸血鬼になっちゃうよ」
「素敵だなァ。吸血鬼になれたら」
敵は無邪気にもストレートに、是が非でも吸血鬼に変身せんとしているらしい。そうして口元からにょっきり生えたあの長い牙を研ぎはじめたら、何を仕出かすか分かったもんじゃない。そうはさせじと、こちらは巧言を弄して矛先を外らす。
「その前にいろいろ読むものがあるよ。毒ってのは、一遍にガボッと呑んだらイカレちゃう。すこしずつ飲めば薬になる。飲み方を知らないといきなり角が生えてきたりするよ」
「どんな本を読めばいいんですか?」
「日夏耿之介の『吸血妖魅考』とか、『サバト恠異帖』とか。ぼくも『吸血鬼幻想』ってのを書いているけど、この本は絶版だ。手元に一冊しかないから、返してくれると約束してくれれば送ってあげる。一緒に『ドラキュラ、ドラキュラ!』という吸血鬼アンソロジーを送ろう。これは上げるよ」
「返すって約束します。送って下さい」
「ええと……住所姓名は?(と写し取って)では、お母さんによろしく。くれぐれもよろしく」
電話は切れた。ホッとすると同時に狐につままれたような気もしている。電話の感触ではどうやら不慮の御落胤ではないらしい。するとわがロリータとその母なる人は何のために電話を掛けてきたのだろうか。吸血鬼文献を訊ねにだろうか。それにしても、そもそも彼女らは何者なのだ。
約束は約束なので、送ると言った本の荷造りをはじめた。終わるともう深更を過ぎている。あらためてウイスキーをグラスに注ぐとベッドに寝そべった。根本って誰だろう? 金色の液体を喉元に流し込みながらうつらうつらと考えている。
(次ページに続く)
初出メディア

週刊時代(終刊) 1977年6月7
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