自著解説

『吸血鬼幻想』(河出書房新社)

  • 2017/07/05
吸血鬼幻想 / 種村 季弘
吸血鬼幻想
  • 著者:種村 季弘
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(315ページ)
  • ISBN-10:4309400469
  • ISBN-13:978-4309400464
内容紹介:
文学、映画、絵画などに出現する吸血鬼の影を追い求めながら、戦慄すべき血とエロチシズムにみちた夜の世界、死と生が交錯する境界領域を縦横に考察するエッセイ集。種村版<吸血鬼大全>。

そのまま眠りに入って夢を見た。夢のなかに井上望が出てきた。アントン・チェホフ号に乗っている。いつのまにかチェホフ号の甲板に真白な制服を着た三島由紀夫が立っている。井上望を目で探すと消えている。三島由紀夫の真白な服も見えない。すこし胸苦しくなり、気がつくと私は十四階建ての細長いビルの窓から落下しつつある。中々下に着かない。恐怖のために心臓が雑巾のようにしぼり上げられている。

夢の内容はいちいち納得が行く。夢を見ながら、何故こんな夢を見ているかが逐一自分で説明できるのである。井上望という名は読者にはお馴染みがないだろうが、私には親しい名である。先に挙げた昭和四十五年刊の『吸血鬼幻想』のあとがきにこんな一節がある。

「編集に際しては薔薇十字社編集部の井上望氏の手をわずらわした、厚く御礼申し上げる。」

つまりこの人は私の本を編集してくれた編集者なのである。

もっとも井上望は根っからの編集者ではなくて、もとは天ぷら屋の板前だった。新宿裏の天ぷら屋で天ぷらを揚げていた。しかし職業的な板前かというとそうでもない。その前はいわばヒッピーのはしりのような人物で、ふいと旅に立ってはいつまでも帰ってこないことがあった。行く先々で何か小さな労働をして、日々の糧を得ていたらしい。本当のところは何者かといえば、詩人だった。早大のロシア文学科を出ていつかはチェホフやゴーゴリのような小説を書こうと思っていた。無類の子供好きで、童話を書くことも希望のうちだった。私が知り合った頃はたしか童画家の鈴木康司と同じ部屋に住んでいたはずである。

本を作る間、彼は、当時晴海埠頭の公団住宅にある私の住居に日参してくれた。生田勉設計になる十四階建ての瀟酒な建物で、すぐ下が外国船の横づけになる岸壁になっている。ときどきロシア文字でアントン・チェホフ号と書いた純白のソ連船が碇泊したりしている。

「ああ、あれに乗ってロシアに行きたいなあ」

ベランダの上からチェホフ号を見下しては井上望はそう眩いた。港の向いには石川島造船の煙突から黒い煙が棚引き、右手の水路の彼方にははるかまで青い水がひろがっていた。

ようやく本が出来て届けにきてくれた日、私たちは公刊を祝ってささやかに乾杯をした。連夜泡盛を正体不明になるまで飲む井上望は酒豪だったが、それだけに激烈な酔い方をする。この日は二人でウイスキーを一本空けると、彼が急にベランダの縁によじ登ってよちよちあるきはじめた。幅二十センチほどのコンクリートの帯で、真下は十一階分の奈落である。

仰天した私は、あわわわッというような声にならない叫び声を上げて井上望にすがりついた。揉み合ううちに彼の身体が四十五度の角度でベランダの外側へのけぞり、あれよと思うまにそれがペコンとバネ人形のようにこちら側に戻って、帯状の縁からようやくベランダの床上にずり落ちた。玩具のキューピーさんそっくりの顔をしている井上望は、そのまま顔色も変えずに台所のポリバケツを持ち出すと、ベランダの上からひょいと放り投げた。ポリバケツは一直線に落下して地面に激突し、ぐしゃっと潰れてなかから台所ゴミの臓物を散らした。黄色いレモンの皮だの、トマトの赤いヘタだの、緑の大根の葉などである。それが潰れた人間の極彩色の内臓のように見えた。

それから三日後に井上望と会って泡盛を飲む約束だったが、井上望はそれっきり現れなかった。出版元の上司Nさんに聞いても行方が分からない。警察へ届けても要領を得ないということだった。またふらっと放浪の旅に出たのだろう、とNさんは言った。今度はもしかすると念願のロシアへ行ったのかもしれない。

その頃から私は、自分が一種の高所恐怖症患者ではないかと疑うようになっていた。夢のなかで高い所から墜ちるのである。自分がみるみる豆粒のように小さくなって、底なしの奈落のなかに墜ちて行くのが見える。あーッと糸を引くような声が残って目が覚める。そういう夢のなかにある日三島由紀夫が出てきた。真白な制服を着てやや斜め向きに立っている。それを見ているこちらの身体が不安定に感じられ、その感じがだんだんに高まるとしまいに身体全体が四十五度の角度に傾いて、左手に底なしの奈落がふいに開ける。落ちるのだな、と思うとけたたましく電話のベルが鳴り、年少の友人の声で「三島由紀夫が自決しましたよ」と言った。

高所恐怖はますますひどくなってきた。寝ていると、そこが十一階だと思うだけで地の底に引き込まれる気持ちになる。

井上望の行方が分かったのはそれから五年後のことである。私と泡盛を飲む約束の前夜、彼は新宿のトルコ風呂の階段下で意識不明の状態で発見された。階段から落ちたらしく後頭部を強く打っていた。病院に運ばれたときにはもう手遅れで絶命していた。遺体の懐中に百円単位の小銭があるだけで、身許を証明する書類は何一つなかった。

警察の調べに不行届きがあったのか、同居人の鈴木康司に死亡の知らせがあるまでに五年が過ぎたのである。その間、私たちはすくなくとも意識の上では、彼がどこか遠い旅の空の下をさすらっていると思っていたのだ。

回りくどくなったが、アントン・チェホフ号と井上望と三島由紀夫の登場する夢にはそんな遠い背景があったのである。

三島由紀夫の制服姿には、澁澤龍彦氏の外遊壮行会のときに羽田空港ロビーで接している。このときの三島氏はホフマンスタールの未完の小説『アンドレアス』と進行中の自作『豊饒の海』のことをそれとなく関係づけながら陽気に談笑していた。私はその前に人伝てに三島氏が『吸血鬼幻想』を面白がっていると聞いていたので、ひそかにこの人に親愛感を持っていた。

深夜の電話から久しく忘れていた旧著とそれにまつわる出来事を思い出しているうちに、自然に先のような夢を見ることになったのである。そのことは自分でも納得が行ったが、夢を挑発した原因の電話の主の正体は不明のままであった。

(次ページに続く)
吸血鬼幻想 / 種村 季弘
吸血鬼幻想
  • 著者:種村 季弘
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(315ページ)
  • ISBN-10:4309400469
  • ISBN-13:978-4309400464
内容紹介:
文学、映画、絵画などに出現する吸血鬼の影を追い求めながら、戦慄すべき血とエロチシズムにみちた夜の世界、死と生が交錯する境界領域を縦横に考察するエッセイ集。種村版<吸血鬼大全>。

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週刊時代(終刊) 1977年6月7

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