- 著者:種村 季弘
- 出版社:筑摩書房
- 装丁:文庫(267ページ)
- ISBN-10:4480020489
- ISBN-13:978-4480020482
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夢を見た日から数日後、郵便物のなかに一枚の葉書を見つけた。
「ご本をどうも有難う。娘が無理なお願いをして、ご迷惑ではなかったかと案じておりました。娘はとても喜んでおります。岩橋邦枝」
発信名にはむろん覚えがある。昨年出した『静かなみじかい午後』という好短篇集が評判になった女流作家である。
若い読者にはそれほど馴染みがないかもしれないが、私たちの世代にとっては岩橋邦枝という名は輝かしい名である。石原慎太郎の『太陽の季節』の直後に『逆光線』という小説で彗星のようにデヴューした学生作家であった。
新聞紙上では女太陽族とか、女石原慎太郎とか、センセーショナルに喧伝されていたが、小説そのものは武骨なまでに骨格の確かな、むしろ地道な作風の力作であった。
新聞雑誌のセンセーショナリズムにいや気がさしたのか、岩橋邦枝さんはその後めっきり作品を発表しなくなった。それからしばらくして私はある職場で彼女と席を並べた。女石原慎太郎などというイメージからは程遠い、浮薄なところのまったくない人柄に、私はひそかに敬意を払っていた。
彼女はまもなくその職場の私の友人の同僚と結婚した。ご夫君の方が飲み友達だったために、私も結婚式に招かれた。瀬戸内晴美が小田仁二郎と一緒に媒酌席にすわっていた。私は『触手』という小説を書いたこの小田仁二郎という作家を尊敬していたので、式が終るまでその人のビールを飲む手つきやら目の動かし方やら、一挙手一投足を細大洩らさずに観察していたものだ。
それはそうと、処女作から二十年ぶりの『静かなみじかい午後』の彼女は見違えるように成熟していた。中年に達した一人の女性がまだ燃え切らぬ青春のマグマのふいの噴出に焦燥と静かな諦念との双面の応対を見せる、こまやかに紡がれた短篇集である。
『逆光線』の青春が輝かしい朝なら、中年に達した作家は人生の午後を静かに、しかしときおりみじかく突発する燃え切らない午前の輝きの名残りに不意を襲われながら、迫りくる夜を見定めて沈着に端正なバランスを保っている。
岩橋さんには、その『静かなみじかい午後』の出版記念会で久しぶりにお目に掛った。それから半年程はお会いしていない。お手紙は嬉しかったが、文面によると私は彼女に何か本を送ったことになっているようだ。当方にはその記憶がなかった。
郵便物にはもう一枚の葉書が混っていた。こちらはハート形や感嘆符がぎゅう詰めになっている、アリスの手紙のように少女っぽい文面である。
「吸血鬼のご本有難う!!♡…」
ではじまる文面の最後は根本瑤子という名で結ばれていた。ああ、これは深夜の電話のロリータだ。本が届いたのだな、と私は合点した。それからふとあることに思い当った。岩橋邦枝さんと結婚した私の友人が根本という姓だったのを思い出したのである。それならば岩橋邦枝は現在根本邦枝であって、電話で根本を名乗ることにいささかの不思議もない。すべての謎は解けた。要するに、成長した根本氏夫妻のお嬢さんが最近吸血鬼に凝りはじめたのだ。
人生は不思議だ。一冊の本の思い出にまつわる人たちだけでも、私に関わる側では井上望と三島由紀夫はもうこの世の人ではない。岩橋さんの側なら瀬戸内晴美は剃髪し、彼女が並び称された石原慎太郎は環境庁長官となり、娘さんは吸血鬼を愛する高校生になった。小田仁二郎はどうしているだろう。このそれぞれの運命を閉じ込めた世界に、たとえば一冊の吸血鬼文献を覗くという好奇心に釣られて一人の少女が近づいてくる。そうして彼女もまたしだいにその世界のなかの人となり、時間という大吸血鬼の牙に生き血を吸われて、惨たる恍惚の餌食になって行く。
吸血鬼なんかに興味を持っちゃいけないな。そう岩橋さんの娘さんには返事を出そう。頭のなかで私はそう思う。それなのに少女の可愛らしい葉書をつまんだ手が指先からみるみるうちに緑色に染まりはじめ、それがたちまち全身に回って、私が世にもむごたらしい緑色の怪物に変身してしまっているのはどうしたことか。そのうえ口はひとりでに腹にもない文句を唱えはじめている。
「おお、ドラキュラ伯爵さま、大吸血鬼さま! 今日もまたあなたさまに捧げる餌食を一人かどわかしました。可愛い、可愛い、十五歳の少女です。おお、ドラキュラさま、われらが至高のご主人さま!」
【この自著解説が収録されている書籍】