解説

『甘い蜜の部屋 森茉莉全集 第4巻』(筑摩書房)

  • 2017/06/22
甘い蜜の部屋 森茉莉全集 第4巻 / 森 茉莉
甘い蜜の部屋 森茉莉全集 第4巻
  • 著者:森 茉莉
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(482ページ)
  • ISBN:4480700846
内容紹介:
十年の歳月をかけて描いた父と娘の濃密な世界。泉鏡花文学賞受賞、唯一の長編小説。(「甘い蜜の部屋」)。

橄欖(オリーブ)色の洋杯

もうだいぶ前のことになるが、プリンストンに留学していた江藤淳が、朝日の文芸時評で、日本の小説家はなにかというと小道具として欧米の製品を登場させ、それでハイカラな雰囲気を出したつもりになっているらしいが、こちらへ来てみるとそんなものは日常的にごろごろしているので、日本から送られてきた文芸雑誌を読むとなんとも白けた気持ちになるというような内容のことを書いていた。これを読んで、私は、江藤淳ともあろうものが、文学の本質を弁えないこんな俗論を口にするのかとあきれかえったことを覚えている。第一に、日本の小説の中に出てくる「フィリップ・モリス」と、江藤淳がアメリカで目にするフィリップ・モリスは、まったく違うものである。たしかにアメリカにフィリップ・モリスはごろごろしているかもしれないが、日本の作家が小説中に登場させたフィリップ・モリスは、小説家の想像力によって生み出されたたったひとつのものとしてそこにあるのではないか。もちろん、江藤淳は、安易なコノテーションにもたれかかる日本の作家を批判したのだろうが、それにしても、現実のモノと小説の中のモノを混同するとは、批評家失格ではないかと思ったものである。

たとえばの話、森茉莉の『恋人たちの森』で、フランス貴族の血を引く混血児、東大仏文科助教授ギドウが唇にくわえる「フィリップ・モオリス」は、江藤淳の見たフィリップ・モリスとは違うものだし、もちろん現在日本で出回っているものともまったく異なっている。それは、ただ単純に、ギドウが口にくわえたがために、絶対に取り換えのきかない唯一のたばことなっているのである。

ただ、そうはいっても、これが普通に「フィリップ・モリス」とかかれていたのでは森茉莉の世界は生まれなかっただろう。やはりここは「フィリップ・モオリス」でなければいけない。「巴里の郊外に大きな邸を持つてゐる、故アントワン・ド・ギッシュを父に持ち、日本の外交官の娘であつた珠里を母に持つ」主人公も「ギドウ」以外の表記は考えられず、もしこれが「ギドー」だったら少女漫画の世界になってしまう。「ロオゼンシュタイン」「レエンコオト」も「生クリイム」も同様である。極端に言えば、こうした表記法によって小説の中に事物を召喚するアルカイック=モダンな美意識がなければ、森茉莉は森茉莉たりえないのである。

もちろん、こうした横文字の表記は、戦前の標準的なものであり、その時代にはだれでもそう書いていたと反論することは可能である。三島由紀夫なども「フローベール」「プルースト」と書かずに、頑固に「フロオベエル」「プルウスト」と表記していた。森茉莉もたんに昔の表記法にしたがっただけだと言ってみるのもよかろう。だが、もし、新表記法採用とかで、「ギドー」が「フィリップ・モリス」を口にくわえることになったら、それは『恋人たちの森』ではなくなってしまうことは確実である。

ではなぜそうなるのか。答えはいたって簡単。「レエンコオト」と表記することによって、森茉莉は、明治・大正の時代に欧米の舶来品が彼女のうちに喚起した夢と憧れを、紙の上に定着しているからである。もちろん、当時とて、外国に行けば、江藤淳の言うように、「レインコート」は無限に存在していただろう。だが、森茉莉が夢と憧れを託した「レエンコオト」は、この世に一着しかなく、それは「レエンコオト」と表記する以外にはなかったのである。こんなことは当たり前と人は言うかもしれない。だが、文学とは、この世に存在する、なんのへんてつもないレインコートを、言葉の力だけで、たった一着の「レエンコオト」に変える一種の魔術の別名なのではなかろうか。

「夢を買う話」というエッセイの中で、森茉莉は、何か買うとき、品物そのものを買うというよりも、「夢」を買っていると述べてから次のように言う。

「硝子が安もののために、硝子特有の不可解な透明の中に、かすかに橄欖色が入っている厚手の洋杯を私は本郷の、米軍家族の払下げた家具什器を売っている店で買った。笑ってはいけない。その微かな、あるかないかの橄欖色は、ボッティチェリの女神の羅の色なのである。向う側にあるものが見えるような、見えないような、あの、曇りのある硝子の透明は、安ものの硝子にしかない。(……)大金を投じて購うということはただの贅沢であって、そこには夢がないし、愉しさがないからである」

美しい一節である、そして、たんに美しいばかりでなく、森茉莉という作家の芸術の本質を開示した一節でもある。米軍家族払下げの安物のコップ、それこそ、アメリカに行けば、どこにでもごろごろしている、何の想像力も刺激しないただのまがい物である。だが、それが、森茉莉の掌に握られたとたん、「微かな、あるかないかの橄欖色」の「厚手の洋杯」となり、あまつさえ「ボッティチェリの女神の羅の色」を帯びてしまうのである。

作家によっては、この米軍の安もののコップを、戦後日本社会の払下げ文化の象徴として描くものもいるかもしれない。だが、森茉莉にあっては、それは「曇りのある」「安ものの硝子」であるがゆえに、かえって想像力を刺激するものとなり、かつて、十九歳のとき、イタリアで見たボッティチェリの「春」の女神の羅の橄欖色を想起させるのである。これに対し、本物には、この不思議な作用がない。

「硝子には不透明な美がある。不透明な魔がある。硝子でも高級品は魅力がいくぶん足りない。ボヘミア硝子とかヴェネツィア硝子とかがそれである」(「不思議な硝子」)

まがい物に対するこうした偏愛、そして、そこから生まれる想像力。それはもちろん、森茉莉の生きた明治・大正、そして戦前の昭和という時代の特徴でもあった。唐突の比喩で恐縮だが、事物と想像力の関係は、「事物×想像力=1」という公式であらわされるのではないかと思っている。つまり、事物がまがい物であれば、想像力は大きくはばたくが、逆に事物が本物になると、想像力はゼロに近づくということである。明治大正の時代には、事物はまがい物だったかもしれないが、その分、それを補ってあまりある想像力があった。それを代表していたのは丸善の文化だった。すなわち

「丸善で外国の書物を二、三冊と、その頃あった丸善独特の、灰色地に濃灰色の斜格子の便箋、封筒を買い、近くの三共の喫茶部なぞで珈琲を飲み、ゴールデンバットを一服して家に帰る学者なぞ」、「今のカルダン・モオドの男たちよりもフランスに密着していた」(「丸善書店」)

それに比べて、ブランド品が溢れかえる今日の日本はどうだろう。想像力という言葉など、およそ死語になっているというほかはない。

だが、こんな時代であればこそ、まがい物を唯一のかけがえのない芸術品に変える森茉莉の魔術的文学は、いよいよその輝きを増すにちがいない。

【この解説が収録されている書籍】
解説屋稼業 / 鹿島 茂
解説屋稼業
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(238ページ)
  • ISBN:479496496X
内容紹介:
著者はプロの解説屋である!?本を勇気づけ、読者を楽しませる鹿島流真剣勝負の妙技、ここにあり。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

甘い蜜の部屋 森茉莉全集 第4巻 / 森 茉莉
甘い蜜の部屋 森茉莉全集 第4巻
  • 著者:森 茉莉
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(482ページ)
  • ISBN:4480700846
内容紹介:
十年の歳月をかけて描いた父と娘の濃密な世界。泉鏡花文学賞受賞、唯一の長編小説。(「甘い蜜の部屋」)。

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