作家論/作家紹介

笙野 頼子『二百回忌』(新潮社)、『極楽・大祭・皇帝 笙野頼子初期作品集』(講談社)、『レストレス・ドリーム』(河出書房新社)、『タイムスリップ・コンビナート』(文藝春秋)、他

  • 2023/11/29

悪夢というアイテム

夢日記をつけているという笙野頼子にとって、夢は不可欠なアイテムとなっているようだが、彼女そして小説の登場人物が夢を見る理由を考えていたら、ボルヘスの語る悪夢についての話を思い出した。『七つの夜』という講演集の中で、彼はコールリッジを引用してこんなことを言っている。

私たちが何を夢に見るかは問題ではない、夢には説明が必要なのだ、と彼(コールリッジ)は言い、こんな例を挙げます。ここにライオンが現れる、すると誰もがこわがります。つまりその恐怖はライオンの姿形が原因となっている。あるいは、私が寝ているとします、目を覚ますと私の上に動物が坐っているのが目に入る、私は恐怖を感じます。ところが夢の中では反対のことが起こりうる。私たちは圧迫を感じるかもしれない、するとこの圧迫には説明が必要になる。そこで私は、馬鹿馬鹿しいけれどまざまざと、自分の身体の上にスフィンクスが横たわっている夢を見るのです。スフィンクスは恐怖の原因ではありません、それは感じられた圧迫の説明なのです。

ここで注目したいのは、「圧迫の説明」としての夢ということだ。笙野頼子も猫を飼う作家だから、寝ているときに猫に乗られるということもあるだろうが、そうした目に見える圧迫ではなく、彼女は目に見えない圧迫を絶えず感じ取ることにより、それが原因となって夢を見るのではないか。あるいは作者に近いと思われる小説中の「私」を考えてもいいが、彼女を圧迫する原因は日常山のようにある。新幹線の中で騒ぐ子供、横柄な不動産屋、猫の失踪、等々、挙げ出せばきりがない。それらは物理的なものではないが、いずれも精神的圧迫の原因となりうるだろう。だが、真の圧迫の原因はそれら可視的現象の背後にある、抽象的あるいは観念的なもの、たとえば家族制、性差、権力、言語システム、国家といった、作者のオブセッションでもある「制度」のようなものではないか。この「制度」による圧迫こそが、少なくとも「私」に悪夢をもたらすのではないかと思えるのだ。その「圧迫」はしばしば「違和感」と表現されてもいる。だとすれば、「私」は死ぬまで悪夢を見続けるだろう。制度がもたらす圧迫は、永久になくならないからである。

しかし、ボルヘスが言うように、夢、悪夢が創作であり、もっとも古い芸術活動であるならば、笙野頼子にとって夢はまさしく芸術的源泉となっているのかもしれない。彼はゴンゴラやアディソンを引き合いに出しながら、夢はそれを見る人間の文学的創作であり、作者である私たちは夢の中で「劇場であり、観客、俳優、物語、自分たちが聞いている台詞である」と言っている。どうやら笙野頼子はこのことに気づいているようだ。

物質化する言葉

夢あるいは悪夢の原因を制度であると言うことはたやすい。小説の役割はその抽象的なものにいかにして具体的なイメージをまとわせるかというところにある。たとえば、ペルーの詩人セサル・バリェホが童話のスタイルで書いた「パコ・ユンケ」という短篇がある。これはラテンアメリカ初のマルキスト、マリアテギの思想の影響を強く受けたバリェホが、小学校のクラスという小宇宙を借りて、階級の構造を絵解きしようとする寓話なのだが、作者は最後に横一列に並んだ子供が、左から右へ順番に隣の子供の耳を引っ張っているところを描いた稚拙なイラストを添えている。イラストを含めて小説とみなすかどうかという今日的問題はひとまず措くとして、ラテンアメリカでもっともすぐれた詩人の一人であるバリェホも、小説の言葉だけではその寓話性を伝えることに自信がなかったのではないかと思わせる行為である。すなわち「搾取」という抽象的概念を表現しようとして、彼は結局イラストという手を使ってしまったのだ。それを思うと、笙野頼子は抽象的概念を言葉によってイメージ化することにかけては、驚くべき才能を発揮する。小説を読んだ後も残像となって消えないイメージがいくつもある。『母の発達』などは、『親指Pの修業時代』の借用らしきものを含め、まさにグロテスクなイメージのオン・パレードだという印象を受けた。読み返してみると記述が意外にあっさりしているので驚いたのだが、ことによると言葉の連合によって読者の方が新たなイメージを作っているのかもしれない。

母の発達 / 笙野 頼子
母の発達
  • 著者:笙野 頼子
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(188ページ)
  • 発売日:1999-05-01
  • ISBN-10:4309405770
  • ISBN-13:978-4309405773
内容紹介:
殺しても母は死ななかった。「あ」のお母さんから「ん」のお母さんまで、分裂しながら増殖した―空前絶後の言語的実験を駆使して母性の呪縛を、世界を解体する史上無敵の爆笑おかあさんホラー。純文学に未踏の領野を拓いた傑作。

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しかし、バリェホのイラスト同様単純ではあるけれど、『レストレス・ドリーム』中の「世代の桎梏」をイメージ化した個所から受ける不気味な印象はいまだに残っている。あまり気は進まないが、引用してみよう。

……メトロノームに変身する前の跳蛇によく似た、跳蛇より一世代上の女の姿だった。それが跳蛇に肩車をし首のところを足で押さえているのだった。その女の肩にまたもう一世代上の女が肩車をしていた。(……)さらにその上には死体になってゾンビ化した女がおり、世代が上がるごとにぼろぼろに風化して行くのだが、それでもしっかりと下の女の首を絞め付けていた。

「蜘妹の糸」やヒエロニムス・ボッスの絵、その他様々な地獄絵を重ね合せることで、読者自身がより恐ろしさを加えてしまうということもあるのだろう。

さらにこの作品は、ドラムやシンバル、オノマトペ化した言葉などの音楽的要素がくわわることで、動的な場面がさらに動的に感じられるようになっている。すなわち、視覚と同時に聴覚を激しく刺激するのだ。こういうことのできる作家で今思い出すのは、アレナスやギリェルモ・カブレラ=インファンテだが、文字そのものの視覚的効果を含め、小説の形式を最大限に利用するところは、彼らキューバの作家の作品に通じるところがある。それもおそらく言葉の物質化と関係があるのだろう。

先にボルヘスの言葉を引用したが、あそこで語られていたのは個人的な夢についてであった。笙野頼子が語るのも多くは個人的夢である。ところが彼女は夢との関係は一対一でも、同じ夢を大勢が見る「共同夢」というものを持ち出してくる。『レストレス・ドリーム』で語られる夢がそれだ。この作品の原理については清水良典の的を射た解説があるのでそちらに譲るが、興味深いのは、「母系の祖先たち」の果てしなく続く数珠つなぎの肩車のような、小さなレベルの「制度」を無数に含む、巨大な制度と主人公の分身との戦いが言葉によって視覚化されていることだ。この小説を読む読者は、老若男女を問わず、またワープロを使う人間はもちろん、ぼくのような「手書きの身体になってしまっている人」でさえも冒険を楽しむと同時に、バーチャル・リアリティを通じて現実との戦いのシミュレーションを経験することができる。しかも、勇気を持って架空の敵と戦ううちに、それが現実の敵であることを知ることができるのだ。ファミコンやコンピュータ・ゲームの多くが戦争などの暴力の代替物となっていて、それによって破壊衝動を発散させるのに対し、『レストレス・ドリーム』のゲームは敵を見抜き、戦う勇気を持つことを経験させてくれる。これはこの作品の「魔術」のもっとも重要な働きだろう。その意味では『不思議の国のアリス』『ネバーエンディング・ストーリー』のようなファンタジックな冒険小説と共通している。とりわけ言葉が重要なファクターとなっているところは、ルイス・キャロル的と言える。

レストレス・ドリーム / 笙野 頼子
レストレス・ドリーム
  • 著者:笙野 頼子
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(253ページ)
  • 発売日:1996-02-01
  • ISBN-10:4309404715
  • ISBN-13:978-4309404714
内容紹介:
桜散る闇と殺りくの街・スプラッタシティでくりひろげられる“夢の中の「私」”桃木跳蛇とゾンビたちとの壮絶なバトル―今世紀最大、史上空前の悪夢を出現させる笙野文学の代表作にして、現代文学の金字塔、待望の文庫化。

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笙野頼子の「魔術」

笙野頼子の「魔術」を、たとえばガルシア=マルケスの「魔術的リアリズム」と比較するとどうなるだろうか。彼の代表作『百年の孤独』では、信じがたい事件がいくつも起きるが、しかしそれは小説の舞台となる共同体の遠近法を用いることでごく自然なこととして語られる。この語りを通じて読者は共同体の遠近法を共有することになるのだが、この仕掛けこそが「魔術的リアリズム」である。しかしこの小説は、いったん共有した遠近法が、本当は共同体のものにすぎないことを明らかにしはじめる。そして登場人物たちが属している神話的時間と語り手及び読者が属す歴史的時間が異なることを際立たせるのだ。さらに羊皮紙に書かれた歴史のエピソードを通じて、ラテンアメリカの人々に、自分たちが他者によって書かれた作品の中にいることを自覚させ、自らの運命の読者さらには書き手となるよう促す。ここに解放の思想があるわけだが、これはラテンアメリカのみならず、他者の作品の中に無自覚なまま囚われている人々にとっても寓話的メッセージとなるだろう。

笙野頼子がマジック・リアリストの資質を備えていることは『二百回忌』が示している。が、実はそれ以上に「魔術的リアリズム」を感じさせる作品がある。それは『タイムスリップ・コンビナート』中の表題作だ。正体不明の人物からの電話でJR鶴見線の海芝浦という駅へ行くことを要請された主人公が、訳の分からないまま電車の旅をするという話だ。作者によれば、それは「一見幻想的な作品で、主人公の幼い頃の記憶を通して昭和という時代を描くのがテーマになっている」という。その意味では村上春樹の「五月の海岸線」という短篇(のような作品)を思い出させる。しかし、問題は作者の言う「幻想的」という部分である。彼女自身は自覚していないようだが、実在の路線を辿りながら駅や風景、人物を幻想的に感じさせるという手法は、他でもない「魔術的リアリズム」なのである。しかもそれはガルシア=マルケス型の「魔術的リアリズム」なのだ。このような見方は、笙野頼子の新しさを語ることにはならないかもしれない。しかし、彼女が世界に通ずる作家の資質を備えていることを明らかにするだろう。それは決してマイナスではない。

タイムスリップ・コンビナート / 笙野 頼子
タイムスリップ・コンビナート
  • 著者:笙野 頼子
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(178ページ)
  • 発売日:1998-02-10
  • ISBN-10:4167592010
  • ISBN-13:978-4167592011
内容紹介:
海芝浦に向かう「私」を待ち受けるのは浦島太郎、レプリカント、マグロの目玉…。たどり着いた先はオキナワか?時間と空間はとめどなく歪み崩れていく。言葉が言葉を生み、現実と妄想が交錯する。哄笑とイメージの氾濫の中に、現代の、そして「私」の実相が浮び上がる。話題騒然の第111回芥川賞受賞作の他、「下落合の向こう」「シビレル夢の水」を収録。

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【選集】
笙野頼子三冠小説集 / 笙野 頼子
笙野頼子三冠小説集
  • 著者:笙野 頼子
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(258ページ)
  • 発売日:2007-01-06
  • ISBN-10:430940829X
  • ISBN-13:978-4309408293
内容紹介:
純文学の守護神にして永遠の「新人」、笙野頼子。デビュー後暗黒の十年を経て、立て続けに受けた三つの栄光-野間文芸新人賞受賞作「なにもしてない」、三島由紀夫賞受賞作「二百回忌」、芥川賞受賞作「タイムスリップ・コンビナート」を一挙収録。いまだ破られざるその「記録」を超え、限りなく変容する作家の栄光の軌跡。

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文學界

文學界 1997年6月号

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