作家論/作家紹介

笙野 頼子『二百回忌』(新潮社)、『極楽・大祭・皇帝 笙野頼子初期作品集』(講談社)、『レストレス・ドリーム』(河出書房新社)、『タイムスリップ・コンビナート』(文藝春秋)、他

  • 2023/11/29

笙野頼子論——マジックとリアリズムのはざまで

Y・Sの受難

笙野頼子について論じるのは決して容易ではない。八十年代から注目され、九十年代に入って大きな脚光を浴びながら、書評や解説をのぞけば、彼女に関する論文や批評がほとんど存在しないというのは奇妙な現象だが、それはこの作家を扱うのが難しいために、無視あるいは敬遠されてきたのが原因と思われる。

たとえば『なにもしてない』の文庫版に寄せた川村二郎の解説は、この作家を高く評価しながらも、論の入口を捜しあぐねているという印象を受ける。作品に現れる架空の土地〈イセ市ハルチ〉のモデルとして現実の土地、伊勢市古市を指摘しながら、中上健次の紀州や路地のような形では扱えないことに、氏はとまどっているようだ。これはぼくの場合も同じで、かねがね相手にしてきたラテンアメリカの作家たちと土地の関係をアナロジーとして持ち込もうとしても、ただちにそうすることができないもどかしさを味わわざるをえない。

なにもしてない / 笙野 頼子
なにもしてない
  • 著者:笙野 頼子
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(224ページ)
  • 発売日:1995-11-01
  • ISBN-10:406263158X
  • ISBN-13:978-4062631587
内容紹介:
ナニモシテナイ幸福な私がなぜだか自分では気に入らないのだった。十年間ずっと私自身はナニカヲシテキタつもりでいたのだった。-生きていることのリアリティを希求して、現実と幻想の間を往還するモノローグの世界を描いた表題作に加えて「イセ市、ハルチ」の2編を収録する芥川賞作家の第一小説集。

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ただし、土地という問題を抱えているのは、ラテンアメリカでも六十年代までに現れた、フォークナーに学んだいわゆる〈ブーム〉の作家たちまでで、それ以後は濃密な血を感じさせるトポスを持った作家というのは見当らない。そのような作家はガルシア=マルケスにフォークナーの受容の仕方を学ぶ形で、今ポストコロニアル性に直面している地域から現れているようだ。ラシュディやイサベル・アジェンデは、すでに土地の問題をクリアしたかに見えるが、莫言やエマニュエル・ドンガラのような作家にとって、フォークナー、ガルシア=マルケスの土地を学ぶことは、今、意味を持っている。

しかし、日本では中上健次の後、〈郊外〉を土地に見立てる島田雅彦のような例があるにせよ、新たにトポスとしての土地を作り出す試みは見られない。したがって、見せ方を変えつつ土地を保っている丸山健二や、外国人労働者を住まわせることで異化した土地を描いてみせる佐藤洋二郎らの存在は、もはや孤立して見える。とはいえ、文学的トポスとしての土地が周縁地域の文学を活性化するという状況が現在も存在することは確かで、そこから日本では沖縄文学が熱い視線を浴びることになる。もっともその構図は、ヨーロッパがラテンアメリカや〈第三世界〉を発見した、あるいは作り出すというのに似た胡散臭さを感じさせもする。すなわち中心=東京が衛星=沖縄に圧力を掛け、土地を持っていることの自覚を促しているようにも見えるからだ。もしそうであれば、それは単に〈中心〉による文学資源の開発ということになってしまう危険がある。もっとも、世界の文学自体そのような構図の中で展開し、その構図を逆手に取る形で優れた作家や作品が生れてきたのであり、その意味では沖縄が大きな可能性を秘めていることは間違いない。とりわけ基地の見返りの経済援助が近代化を進めることにより、多くのものが失われようとしている今、特にそのことが言える。

では土地を、少なくとも三枝和子が試みたようなフォークナー的トポスのモデルとして使わない、笙野頼子の小説をどのように論じたらよいのか。それを考えるとき、現在この作家の良き伴走者となっている清水良典のように、彼女の試みを言語=国家との個人的闘いと見る論は、本質的なところを捉えたものとして、彼女をめぐる言説に伴いがちな隔靴掻痒感を一掃してくれる。ことにヴィトゲンシュタインを援用し、「言語ゲーム」という概念を当てはめる方法には説得力がある。作者自身、清水氏の論が彼女の意図を正確に捉えるものであると認めていることは、彼女と松浦理英子の対談集『おカルトお毒味定食』に示されている通りだ。

おカルトお毒味定食 / 松浦 理英子, 笙野 頼子
おカルトお毒味定食
  • 著者:松浦 理英子, 笙野 頼子
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(253ページ)
  • 発売日:1997-04-01
  • ISBN-10:4309404979
  • ISBN-13:978-4309404974
内容紹介:
九十年代文学シーンをぬりかえたダブル・スーパー作家が、不遇時代や日々の生活、創作の秘密、フェミニズム観などすべてを本音で語りあいながら、つまらぬ世間をけちらして、読む者をふるいたたせるラディカルにして繊細な対話。

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だとすれば、笙野頼子論はすべて「言語ゲーム」という概念で切れることになるだろう。とはいえ、それですべてを言い尽せるわけではない。

ある講演で高橋源一郎は、室井光広をボルヘスに喩える一方、笙野頼子の作品を、ガルシア=マルケスを意識して、魔術的リアリズムと評した。講演は九四年の秋だったから、『二百回忌』を中心とする一連の短篇を指してそう言ったのだろう。ぼく自身は彼女の作品を魔術的リアリズムと呼ぶのを知ったのはそれが最初で、その後特にその種の発言や論に出遭わないのだが、鈴村和成によれば、「笙野頼子は一般に幻想作家と位置づけられて」おり、「土俗的シュールレアリスムとか魔術的リアリズムとも言われる」という。だが氏は、幻想や魔術の側面に対しては否定的で、それらに「傾く限り、彼女の小説は旧来の文学の神話に回収されてしまう」と言う(世界×現在×文学 作家ファイル)。

二百回忌 / 笙野 頼子
二百回忌
  • 著者:笙野 頼子
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(185ページ)
  • 発売日:1997-07-01
  • ISBN-10:4101423210
  • ISBN-13:978-4101423210
内容紹介:
二百回忌はただの法事ではない!この日のために蘇った祖先が、常軌を逸した親族と交歓する、途方もない「一族再会」劇なのだ。二百年分の歪んだ時間の奥に日本の共同体の姿を見据えた表題作は第7回三島由紀夫賞を受賞した。他に、故郷への愛増を綴った「ふるえるふるさと」など、日本のマジック・リアリズムと純文学のエキスが凝縮された、芥川賞作家の傑作集。

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言うまでもないが、ネーミングというのは大きな危険を伴う。それは物事のある側面を際立たせる一方、他の側面を隠してしまうからであり、ブラジルの作家クラリッセ・リスペクトールの言葉を借りれば、「名称は付け足しで、物との接触を妨げる」し、「物の名称は物に対する間隔」となるからだ。

実際、彼女の小説にはフェミニズムというネーミングもされているようだ。が、これには彼女自身批判的である。見慣れぬものが現れたとき、人はそれに名を与えることで不安から逃れようとする習性があるが、フェミニズムというネーミングの場合、彼女はそれを使おうとする男性に、今や認知された概念に回収することで毒を消そうとする意図とともに、フェミニズムそのものを人畜無害なものにしようとする意図をも嗅ぎつけているのかもしれない。そのようなネーミングによって一般化されるのと同時に、小さな枠内に収められることも、彼女とその作品は拒むのだ。

「魔術的リアリズム」の氾濫

ところで、「土俗的シュールレアリスム」あるいは「魔術的リアリズム」は、どのような概念として用いられているのだろうか。高橋氏にせよ鈴村氏にせよ、特に定義してはいない。彼らはおそらく、「現実と幻想の混淆」といった一般的イメージでそれを使っていると思われるが、これらの名称の用い方にも実は問題がある。ことにガルシア=マルケスの『百年の孤独』が知られるようになってからというもの、「魔術的リアリズム」という言葉は独り歩きを始め、ジャーナリズムにおいて氾濫するようになってしまった。批評家ですら時評や書評などで気軽に利用する傾向があり、その結果かえって本質を見えにくくするという事態さえ生じている。それがレッテルとなってしまい、疫病のようにはびこるのであれば、作家も作品ももはや隔離という方法でしか自らを守れなくなるだろう。

だが、何よりもぼくたちを悩ませるのは、世界的レベルで見ても「魔術的リアリズム」そのものの明確な定義が存在しないということだ。研究者たちでさえ、各人各様の使い方をしている。たとえば一九七五年の国際イベロアメリカ文学協会第十二回会議では、「イベロアメリカにおける幻想と魔術的リアリズム」というテーマの下に様々な発表が行われたが統一した見解が生じるどころか四分五裂するという有様で、魔術的リアリズムの概念の曖昧性がかえって浮き彫りになるという皮肉な結果となった。あるいはこれの前後に行われた研究者同士の対話にしても、論争自体ほとんど噛み合っていない。そのため、スペイン語圏で書かれた「魔術的リアリズム」に関する本の多くは、様々な論の分類、紹介という形式をとらざるをえないのである。

その意味では、一九九五年に出たロイス・パーキンソン・ザモラ他編『マジカル・リアリズム その理論、歴史、共同体』も同じ路線上にあると言える。この本は、「魔術的リアリズム」の命名者であるドイツの批評家フランツ・ローの文をはじめ中味は異なるがこのタームを用いた作家、批評家たちの考え方を年代順に紹介する一方で、その概念を不統一なまま、ラテンアメリカ以外の文学にも適用しているのが特徴だ。これは編者がアメリカの大学の比較文学研究者であることと関係があると思われるが、ガルシア=マルケス、ラシュディはもとよりトニ・モリソン、ギュンター・グラス、デレク・ウォルコット、さらには芥川から村上春樹に至る日本の作家までがその対象となっている。ここにあるのは概念を拡大された広義の「魔術的リアリズム」と言えるだろう。

この異種混淆的「魔術的リアリズム」ならば、日本の作家でも長いリストができるにちがいない。そこには巽孝之が試みたように久間十義を加えることができるだろう。そしてもちろん笙野頼子にも資格は十分にある。久間の場合は隠蔽された歴史、笙野の場合は隠蔽された制度と、その対象は異なるが、見えないものと闘い、それを可視化するという点では共通している。

今、異種混淆的「魔術的リアリズム」と言ったが、ここでその異種の部分に若干スポットを当ててみよう。

たとえば、五十年代に唱えられたアンヘル・フローレスの説によれば、イスパノアメリカ文学における魔術的リアリズムはカフカに由来し、リアリズムとファンタジーの混淆を特徴としているという。したがって、カフカの短篇を最初に訳したボルヘスの『汚辱の世界史』が「魔術的リアリズム」の嚆矢ということになる。しかしこの説はルイス・レアルによって否定される。彼によれば、ボルヘスは幻想文学に属するのであって、グアテマラの先住民の神話的世界を作品に取り込んだアストゥリアスやカリブの黒人の魔術的世界を発見し、「現実の驚異的なもの」という概念を唱えたカルペンティエルらこそ「魔術的リアリズム」の作家であるという。彼によれば「魔術的リアリズム」は幻想文学や心理主義文学、シュールレアリスム文学とは異なる。シュールレアリスムのような方法では夢のモチーフを用いず、幻想文学のように現実をデフォルメすることも架空の世界を創ることもないし、登場人物の心理分析を重要とみなすこともない。

ところが、アンデルソン=インベールはカルペンティエルの「現実の驚異的なもの」を「魔術的リアリズム」とは区別する。なぜならカルペンティエルは「現実の驚異的なもの」が外部に物理的に存在すると考えているのであり、それは誤りだと言うのだ。続いて彼は幻想文学との違いを説明する。これについては鼓直氏による要領のいい紹介があるので、それを引用させていただく。

まず幻想文学においては〈超自然的なもの〉が介在する。それが物語のなかに突然闖入して、読み手を驚かすのだ。論理のもろもろの原則はどこかへ追いやられ、自然の正常な営みを思いもよらぬ混乱のうちに巻きこむ。現実の物理的な次元では到底考えられない、不可能としか言いようのないことが、いとも簡単に生起する。(中略)空間も、時間も、それぞれ自在に収縮し、拡大し、消滅し、新たに誕生する。夢と現実の境界も相互に浸食、融合するというわけである。
次に、〈魔術的リアリズム〉では〈奇異なもの〉が重要な働きを果たす。それを標榜する物語では物、人間、事件、といったもののすべてが合理的で、はっきりとそれと判別できるが、しかし読み手に奇異感を与えるために、故意に人物や物事の目に見える合理的な部分が無視され、納得のいく説明が差し控えられている。〈魔術的リアリズム〉は「現実の溶解(魔術)と現実の模写(リアリズム)の中間に」あり、「そこで生じる出来事は現実でありながら、非現実の幻覚を生みだす」のである。(「幻想文学と魔術的リアリズム」)

アンデルソン=インベールがここで言っている〈魔術的リアリズム〉とは、まさしくガルシア=マルケス特有の方法に当てはまる。とりわけ彼の『百年の孤独』に見られるのがこの方法である。ただし、「読み手に奇異感を与える」のには、この作品の根幹に関わる意味がある。それは単に鬼面人を驚かすといった類のものではない。そうではなく、おそらくは現実を眺める遠近法の転換を読者に促すところから、この奇異感は生れるのだ。

笙野世界の〈遠近法〉

こう書きながら、ぼくは笙野頼子のことを考えている。彼女の小説は、厳密に言えば「魔術的リアリズム」とは呼べず、むしろアンデルソン=インベールが定義する幻想文学に相当する。それに、少なくとも初期の作品においては、その完成度にもかかわらず、見えないものは言葉によって可視化されるのではなく、むしろ説明されている。たとえば『初期作品集I』に収められた「皇帝」で彼女はこう書いている。

逃げても無駄だと判った。彼らの評価は、すでに彼の心の底に食い込んでいた。階級意識というのはこの国にないはずだが、それでもどこまででも追い掛けてくるものの見方、教育、人々、社会というものをはね返せなかった。

ここでは「ものの見方、教育、人々、社会」と言葉が生のまま羅列されている。観念は具体的なイメージをともなってはいない。そのために、観念小説が観念小説として露呈しているという印象を受ける。ことによると意図的なのかもしれないが、少なくともこの作品では効果的ではない。たとえば「ものの見方」だが、それは読者との間に共通の認識があることを前提としてそう言っているようだ。つまり「この国」という共同体の一員の遠近法が自明のものとして扱われているのである。

しかしこの作品には、観念を物質化した驚異的イメージがある。それは主人公の「彼」を声から守ってくれる「塔」であり、考えや思い出を皇帝(「彼」)にふさわしい形に組んで積み上げたものである。ここに見られる観念の物質化は、前述のリスペクトールの作品を思い出させる。ぼくの考えでは、『G・Hの受難』の主人公が口にするゴキブリは、現実の生き物であると同時に観念を物質化したものだ。カフカの系譜に属するこのユダヤ系ブラジル人作家もまた、リオのアパートにあって、現実に異和を感じ続けていた。

極楽・大祭・皇帝 笙野頼子初期作品集 / 笙野 頼子
極楽・大祭・皇帝 笙野頼子初期作品集
  • 著者:笙野 頼子
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(296ページ)
  • 発売日:2001-03-09
  • ISBN-10:4061982524
  • ISBN-13:978-4061982529
内容紹介:
輪切りの地獄、鼠硝子、自閉帝国…究極の地獄絵を求める密室画家、「地獄変」の書き変えを志した「極楽」。祝祭の日、父親殺しの妄想へと走る小学生「大祭」。自閉帝国を求める白衣の殺人者、長篇「皇帝」。二十五歳で群像新人賞を受賞した芥川賞、三島賞、野間文芸新人賞作家が、暗黒の八〇年代を注ぎ込んだ引きこもり・憎悪小説集。

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このように笙野頼子は言葉の物質化を通じて、遠近法の変換を行うのだが、かりに「彼」による「塔」の発見が、人間とそれを取り巻く環境との間に存在する秘められた関係の発見を意味するならば、それはルイス・レアルの言う「魔術的リアリズム」の条件の一つということになり、彼女と「魔術的リアリズム」の親近性を感じさせる。

彼女の作品の中でも、その語り口といい、幻想性といい、もっとも「魔術的リアリズム」的相貌を備えた作品は、一般的にもそうみなされていると思われる『二百回忌』である。これは語り手である「私」が父方の家で執り行われる二百回忌に出席するという話だが、「私の父方の家では二百回忌の時、死んだ身内もゆかりの人々も皆蘇ってきて法事に出る」という書き出しは、超自然的な内容でありながらそれがあっけらかんと語られるため、読者はいきなりそのフォークロア的語り口に乗せられてしまう。すなわちその虚構的事実を無理なく受け入れてしまうのだ。彼女はストーリーテラーとしても優れている。だがイサベル・アジェンデのように物語を無限に紡ぎ出すことはせず、それと闘い、不具にしてしまうのだ。

『二百回忌』では時間は歪み、進み具合は人によってそれぞれ違う。このようなワープする時間を描くのはカルペンティエルの得意とするところだが、彼女の場合はさらに時間を物質化あるいは人格化するという離れ業をやってのける。そのような時間の認識の仕方が出身地にあるのかどうかは残念ながら知らない。もしあるとすれば、彼女の仕事はガルシア=マルケスや中上健次のそれに似ていることになるが、もしそうでなければ、恐るべき想像力と言わねばならない。そしてガルシア=マルケスよりも後の世代に属するレイナルド・アレナスの「魔術的リアリズム」を思わせる。というのも、アレナスの場合、その「魔術的リアリズム」はファンタジーとの混淆と考えられるからだ。あるエッセーで笙野頼子はこの作品に触れて、「先祖の法事に死者が蘇って来て一緒に踊りまくるという設定の表題作は、多分怖くない状態で死んだ人に会いたいという願望を、そしてまた、死者を悼み身内と親しむ中に必ず入り込んでこようとする陰険な制度への反感とを同時に表している」(『言葉の冒険、脳内の戦い』)と言っている。興味深いのはアレナスの初期の作品においても死者が蘇ったり、カーニバル的場面があったりすることで、彼女の言葉はそれを解読するためのヒントになるかもしれない。もっとも、アレナスの場合は現実逃避としてのファンタジーの性格が強いのに対し、笙野頼子の場合はむしろ現実と闘うためのファンタジーという性格が強いことを指摘しておく必要があるだろう。いずれにせよ、両者とも政治、言語あるいは性という制度に大きな圧迫を感じていたのであり、それに対抗するものとして実験小説を書いたという共通点がある。彼らの作品のファンタジーや魔術の強度は、彼らが感じる圧迫の度合いに比例しているようだ。

日常的には見えない制度、社会の仕組を暴き、可視化するのは作家の重要な役目だが、笙野頼子はこの役目を強く意識する作家である。初期作品集の『極楽』に収録された小説はいずれも男性を主人公にしているが、これは私小説の定型を壊す一方で、性を取り替えることにより見えてくるもの、すなわち制度が拠って立つ男性社会を反対側から見ることによって得られるものを見極めようとする実験とみなすこともできる。隠されたものに対して敏感に反応することを、彼女は対談において自ら明らかにしている。次に引用するのは、川村湊との対談での発言である(『言葉の冒険、脳内の戦い』付録)。

笙野——日本語でずっと日本語のなかにいると、どっぷり日本語に漬かってずるずる日本語を使って、みんなコミュニケーションできているように見える。でも実は違っていたり、国から歪んだ日本語を押しつけられていたりするのね。
はっきりと問題があるというのではなくて、いろんなものがすごく単調にツブツブとたくさんあって、そのなかに陰湿に何かが隠れている感じ。それと戦おうと思ったら、必死で変なものを持ってこなくてはならないんですよ。

言葉の冒険、脳内の戦い / 笙野 頼子
言葉の冒険、脳内の戦い
  • 著者:笙野 頼子
  • 出版社:日本文芸社
  • 装丁:単行本(228ページ)
  • 発売日:1995-07-01
  • ISBN-10:453705039X
  • ISBN-13:978-4537050394
内容紹介:
その文学の前衛性ゆえに、苦節十年を余儀なくされた著者が、受賞騒ぎの顛末を語り、文学への真摯な想いを吐露し、激変する日常の生活風景を綴る、待望のエッセイ集。

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あるいは、見えないものは、正体不明の「嫌なもの」として彼女を襲う。「閉じ籠っても閉じ籠ってもそれはどんどん自分の内部に侵入して来たから、密室に立て籠ったまま、それらを文字で捉えようと試み」、「現実を意識し過ぎて現実的に生きられない自分自身の、逃れ難い外界に対する違和感、を追い掛けていた」とあるエッセーで彼女は述べているが、『なにもしてない』はそこから生れた作品である。それは「心の中で起こった出来事、もうひとつの現実を追い掛け」るものであり「実験室のような観念的な場所で」行った、「幻想と現実の混じり合った模型の実況中継」であるという。

ここでは自己観察は、かつてのような三人称ではなく、一人称のモノローグ形式によって行なわれている。この世界において完全な密室というのは存在しない。ロビンソン・クルーソーの島や『蜘蛛女のキス』の牢獄がそうであるように、それは擬似密室でしかなく、そこでは社会的矛盾がかえって鮮明に現れる。通常その空間には他者がいて、ダイアローグという形式を通じてそれらの矛盾を浮び上がらせることが多いが、笙野頼子の場合はむしろモノローグを用い、そのモノローグによってドラマを生起させる。そのため、そのドラマは夢、それも悪夢に似た感触を持つ。このことは彼女の多くの作品に共通しているのだが、その悪夢的世界こそが鏡に映った世界の真の相貌かもしれないのだ。それは覚醒しているときにはむしろ見えにくく、彼女の作中人物の場合、半覚醒状態のときにもっとも鮮明になる。半覚醒というこの中間的状態、夢であり現であり、夢でなく現でもないという不思議な状態は、この作家特有の幻視空間で、読者はそこに誘われるとき、見慣れた日常風景がいつの間にか歪んでいることに気づき、戦慄を覚えるだろう。それは語り手の悪意が紡ぎ出す言葉によるビジョンなのだが、悪意(見方によれば善意)に立脚することで、日常は偽善の仮面を剝がれ、そのグロテスクで醜悪な顔をのぞかせる。そのとき読者は、世界がいかに攻撃的であるかを知るだろう。そして攻撃誘発性を共有することで、それを備えている人間の目に映る世界がいかなるものであるかを体験するだろう。
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文學界 1997年6月号

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