読書日記

鹿島茂「私の読書日記」週刊文春2017年3月2日号『「本をつくる」という仕事』『犯罪・捜査・メディア 19世紀フランスの治安と文化』『フランスはどう少子化を克服したか』

  • 2017/07/16

週刊文春「私の読書日記」

×月×日

入試監督・採点という大学教員の「宿命」が八日間ほぼ休みなく続き、疲労困憊。読書など不可能な状況だが、そうなるとかえって大量に本を買い込んでしまう。そして改めて思う。本というのは人類が生んだ最高の発明品なのではないかと。ところで、この発明品を支えているのが分業であるということはあまり意識されていない。この厳然たる事実を教えてくれるのが稲泉連『「本をつくる」という仕事』(筑摩書房 1600円+税)。著者は東日本大地震で被災した書店を訪れたのを契機にハードウェアとしての本(製紙、活字製造、製本、活版印刷、装幀、校閲などの工程・作業)に注目し、「『もの』としての本が自分の手元に届けられるまでのあいだに、どれだけの人のかかわりがあるかを想像して」みたという。「彼らの仕事は一冊の本や本の世界を形作る上で欠かせないけれど、普段はあまり表には見えない」。だからこそそれらの人々の仕事への思いをすくい上げていきたいと思ったのである。

「本をつくる」という仕事 (単行本) / 稲泉 連
「本をつくる」という仕事 (単行本)
  • 著者:稲泉 連
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(235ページ)
  • 発売日:2017-01-25
  • ISBN:4480815341

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たとえば、著者は震災取材以来、本を買い求めるとき必ず紙に思いを馳せるようになったが、それは被災した三菱製紙八戸工場が書籍用紙の多くを製造し、いわゆる「酸性紙問題」を解決するため中性紙を開発して書籍用紙の比重をさらに大きくしていた工場だからである。酸性紙問題とは、十九世紀中頃からインクの滲み防止用ロジン(松脂)の定着剤として硫酸バンドが使われたため紙の繊維の経年劣化が加速したことを指すが、同社は硫酸バンドの代用品を開発して中性紙の量産に成功、酸性紙問題を解決したのだ。三菱製紙元執行役員の日比野良彦さんから著者が聞き出した量産テストのエピソードは感動的だ。「丸められた絨毯が一気に広げられるように、抄紙機に白い流れが現れる。その瞬間、『おお』というどよめきが起こったのを、日比野さんはいまも忘れられない。(中略)これにより、これまで数十年という時間で劣化していた日本の本は、初めて三〇〇年から五〇〇年という品質が保証された製品となったのである」。

東京葛飾区の中川工場で紙の色を調整する「調色」を担当していた古参工員の職人技のエピソードも興味深い。「彼らはパルプの溜められたタンクからすくい上げた原料水を、適当な強さで搾っては団子状に丸めて並べていた。そうして乾いたパルプの団子の列の色合いを比べながら、自らの感覚だけを頼りに染料を添加していくのである。もし添加する分量を少しでも誤れば、プール一杯分のパルプが無駄になってしまう」。こうした超絶職人技を八戸工場で完全オートメーションで再現しようと試みたのがエンジニアだった信田博司さんだった。試行錯誤の末、信田さんは「中川工場の紙」を超える紙を開発するのに成功する。ある日、取引先の老舗出版社の編集者が工場に来て、中川の紙の方が良かったと話をしたので、信田さんはブラインド・テストでこれに挑戦する。「どちらの工場でつくられたか、一目ではわからない二つの書籍用紙。その手触りを何度か確かめた後、編集者が選んだのは八戸工場の製品だった。『これが技術ですから』こう胸を張って言ったとき、二年間をかけて転抄を行なった日々が、ようやく報われたという思いが信田さんにある」。

情報の媒体が紙から電子に代わろうとしている現在、モノとしての本に込められた人類の英知をもう一度確認するためのベストの本である。
 

×月×日

情報伝達手段が増え、ニュースを欲する人の数が増加すると、不思議な現象が起る。いたるところで凶悪犯罪が頻発しているような印象が生まれ、一歩外に出ると犯罪に巻き込まれるのではないかという不安が人々に犯罪者の厳罰化を叫ばせる。やがてはそれが政治家を動かして、現実もまた厳罰化の方向へと進んでいく。といっても、現代のSNS社会のことではない。新聞が異常発達した十九世紀フランスのことである。ドミニク・カリファ『犯罪・捜査・メディア 19世紀フランスの治安と文化』(梅澤礼訳 法政大学出版局 4000円+税)はフィクションの内容(シニフィエ)は歴史資料とはなりえないが、その語り口(シニフィアン)に現れている恐怖、不安などは十分に歴史研究の対象となりうるとする歴史書で、『労働階級と危険な階級』のルイ・シュヴァリエの系譜に属する。私はこれを「シニフィアンの歴史学」と呼んでいる。この「シニフィアンの歴史学」の特徴がよく出ているのが世紀末ジャーナリズムが好んで取り上げたアパッチ(ならず者)による「夜襲」の分析。「夜襲」とはほろ酔い加減で夜の街を歩いている人が悪漢に襲われ金品を奪われるという類いの事件なのだが、新聞はこれを扇情的なイラストとともに掲載すると発行部数が伸びることを知り、創作を交えた報道を繰り返したのだ。「警視庁は一八八〇年一〇月に新聞が数え上げた一四三の夜襲のうち半分が純然たる作り話だったと論証した」。しかし、いくら「理性」が「事実」を使って論証を行おうと、「感情」や「不安」はそれを信じない。そして、これらの「感情」や「不安」が活路を見出したのが、なんと議会政治と法曹界だったのである。「それは一時的にではあれ世論を動かすこととなり、この問題の中に有益な主題と新機軸の論法とを見出した政治家たちの注意を引くこととなる」。

犯罪・捜査・メディア: 19世紀フランスの治安と文化 (叢書・ウニベルシタス) / ドミニク・カリファ
犯罪・捜査・メディア: 19世紀フランスの治安と文化 (叢書・ウニベルシタス)
  • 著者:ドミニク・カリファ
  • 出版社:法政大学出版局
  • 装丁:単行本(358ページ)
  • 発売日:2016-10-25
  • ISBN:4588010492

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すなわちパリ市議会では議員たちが民間警備員の計画を打ち出す一方、法曹界でも凶悪犯が進歩主義的な刑罰思想のせいで罰せられずに野に放たれるとする「処罰の危機」の言説が勢いを増してくる。かくて厳罰への回帰が起こり、リヨン控訴院の検事総長ルーバは「処罰の危機」と題する論文を発表、法務大臣に対して叛旗を翻す。結局、最終的には「処罰の危機」派は敗退するのだが、過剰報道のメディアが「処罰の危機」派を育て、厳罰主義を呼び込むところなどは現在の日本とよく似ている。歴史が繰り返されないためには歴史をしっかりと学ぶ必要があるようだ。
 

×月×日

パリでは「デパートの専門家」ということもあり、各階の売り場をよく歩くが、日本と違って、子供服売り場、生活雑貨、インテリアなどが近年いっそう充実してきているように感じられる。子供の数が増え、新しい消費を喚起しているからなのだろう。やはり若年人口が経済を支えるというのは事実なのだ。では、フランスは人口増加のために具体的にどんな方策を取ったのか?

髙崎順子『フランスはどう少子化を克服したか』(新潮新書 740円+税)はフランスで結婚・出産・育児を体験した日本人女性が体験を語ると同時にフランスの出産・保育システムを調査したレポートで、産院、保育園、ベビーシッターの進化形である「母親アシスタント」、三歳から子供のほぼ全員が入学する「保育学校」などを取り上げて、少子化克服のためにフランスが整備した法体系や制度、さらには思想まで踏み込んでいるが、本書の核は次の言葉にある。

フランスはどう少子化を克服したか (新潮新書) / 髙崎 順子
フランスはどう少子化を克服したか (新潮新書)
  • 著者:髙崎 順子
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:新書(224ページ)
  • 発売日:2016-10-14
  • ISBN:4106106892

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『ここでは、子育ては大変だと認められている』ということ。こんなハードなこと、親だけでできるわけがない。だからまわりが手を貸そう。その考えが、親戚・ご近所・友達付き合いをはじめ、社会全体に行き渡っています。(中略)言い換えると、『親の育児能力』に対する期待が低いのです。親だけで子供を守り育てることはできないと、みなが思っている

じつはこれ、モンテーニュが『エセー』で教育について「子供を両親の膝元で育てるのは正しくないというのも、だれもが認めている考えなのです」と述べているのと基本的に同じなのである。

子供は個人が生んで国家が育てる。これが昔からのフランス的教育観なのである。

初出メディア

週刊文春

週刊文春 2017年3月2日

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