文学と市民活動、稀有な野人の生き方
本書『中野好夫論』は、副題に「『全き人』の全仕事をめぐって」とある。それは決して、中野好夫の伝記ではなく、「出版され、公開された資料を集めて書いた中野論」である。英文学者として東大教授の身分にありながら、大学教授では食っていけないという理由で辞職して、英米文学研究のみならず、文化評論、文学論、伝記、翻訳、社会評論や社会活動といった多方面にわたる分野で活躍した、中野好夫の全仕事を読み直し、考え直そうとする、文字どおりの労作と言っていい。一昔前の読者なら、中野好夫とは新潮文庫で出ていた、『月と六ペンス』をはじめとする数多くのモームの翻訳者であり、岩波新書に『アラビアのロレンス』や『スウィフト考』がある伝記作者として、一般に広く知られた書き手であったことをご記憶だろう。そうした書き手としての中野好夫の著作の中で、著者の岡村俊明がとりわけ高く評価するのは、資料を丹念に渉猟して書き上げた、伝記文学の達成『蘆花徳冨健次郎』であり、「翻訳家中野の最高傑作と呼ぶに値する」、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の翻訳である。
しかし、本書で一番の読みどころは、「私はわが戦争に極力協力した」という戦後の反省の上に立って、自らの国家観や世界観を鍛え直し、憲法や沖縄の問題を深く掘り下げ、一市民として平和と民主主義の運動にたずさわった点に大きな紙数を割き、そうした社会運動家としての活動を中野好夫の「仕事」として評価した点にある。その部分があってこそ、「全き人」としての中野好夫が描き出されるのだ。とりわけ、当時の美濃部東京都政を支える「明るい革新都政をつくる会」の中心的メンバーとなって、社会党と共産党の統一戦線作りに腐心した中野好夫の努力は、野党共闘が混迷をきわめる現在にあって、ふりかえらなければならない原点だろう。
下世話になることもいとわない、情熱的な語り口が持ち味の中野好夫を論じるにあたって、著者の筆致はあくまでも抑制的であり、一方的に対象の肩を持ったりはしない、バランスの取れた記述になっている。それでも、著者がここまで中野好夫を追いかけようとしたのは、中野好夫を生涯突き動かしていた、「一貫した生への問題の興味」に強く共感したからに違いない。そして、中野好夫が『蘆花徳冨健次郎』を書いたように、自分も中野好夫を書こうとしたに違いない。
評者は、いまから五十年以上も前、高校生のときに、「シェイクスピアの面白さ」と題する中野好夫の講演を生で聴いたことがある。京都の府民講座に集まった人々は、わたしも含めて、シェイクスピアのシの字も知らない人が多かったはずだが、中野好夫の巧みな話芸に大笑いしていたことを思い出す。それは聴くものを誘導するシェイクスピア劇のレトリックが、自らの血となり肉となったものだった。わたしはそんな活きた知識を身につけた人間を初めて見たような気がした。
『中野好夫論』が描き出しているのは、文学研究から、物書きとしての活動、そして一市民としての活動が一体となった、稀有な野人の生き方である。本書の読者は、読み終わってから、中野好夫という人間のありさまにいつまでも思いを馳せざるをえないはずだ。