前書き

『ブック・カーニヴァル』(自由國民社)

  • 2017/09/17
ブック・カーニヴァル / 高山 宏
ブック・カーニヴァル
  • 著者:高山 宏
  • 出版社:自由國民社
  • 装丁:単行本(1198ページ)
  • 発売日:1995-06-00
  • ISBN-10:4426678005
  • ISBN-13:978-4426678005
内容紹介:
とにかく誰かの本を読み、書評を書き続け、それがさらに新たなる本や人との出会いを生む…。「字」と「知」のばけもの、タカヤマが贈る前代未聞、厖大無比の書評集。荒俣宏、安原顕ら101名の寄稿も収載した、「叡知」論集。
その次には、一九六〇年代末にぼくらを知識への興味につなぎとめてくれたあの美術史学への感謝をこめて「ニュー・ヴィジュアリズム」と総題するセクションを入れた。「あの」美術史学に、であって美術史学一般、もしくはいまの美術史学に、では絶対ない。「きれいな(ファイン)」ものを独占的に扱ってるのに、なぜ、と思うほど糞ッタレ(メールド)!の世界。先日もイタリア美術の本を訳したら、斯界のチャンピオンとか任ずる底なしのバカ男から、英文学の奴が美術に手を出すんじゃない、大体きみはイタリアに留学したことがあるんですか、大体きみはイタリア語も読めないくせに、大体きみは……大体きみは……という丁寧なお電話を頂戴した。「うるせえやい、専門、専門てえのたまうてめえらが何にもしないできたから、英文学者がやるようなことになるんだろうが、この糞ッタレ!」と言ったら、きみはやくざか、と言って電話は切れた。そうか、おれ、気付かなかったけど、やくざだったのか。遊び人なんだとばっかり思ってたのにねえ。このイタリアぼけの「アメ・ション」野郎、おれの目の黒いうちはてめえなんざ……とか思ったが、まあ、やめておこう。大事な刀がさびらあ。

「きれいな(ファイン)」アートばかりやっててもラチがあかないでしょう、と言いたいのだ。大好きなジョン・バージャーが『イメージ』で腹を立てていたような泰西名画コンプレックスがいまだにあって、右(事務局注:上)のバカ者のような「専門家」集団を再生産している。なんで山高帽の美術史、引札の図像学があってはいけないのかと思うが、「いかに」というところのない「何を」ばっかりの秘教的教育が、こういう関心をきれいに殺してしまっているんだろう。そういう本はむこうでは大量に出ているのに、入ってこない。 完全な鎖国である。「何を」の教育の根本を問う「視覚文化」脱構築の動きなどもはなばなしい。こう書いている今も、ドーンドンという音を立てて玄関に届いたマーティン・ジェイの『ダウンカースト・アイズ』、D・マイケル・レヴィン編『近代と視覚のヘゲモニー』にバーバラ・スタフォード『アートフル・サイエンス』。「美術」と「哲学」の境目をいく巨大な反知、奇知の動きがある。美術の人と哲学の人、その両方がやればよいのにと思うのだが、「専門」がねっ、というわけで、結局だれも、やらない。それでぼくのようなジャンキー(いや、やんきい)なスクラップ・マンが、やる。それだけの話だ。

ここでも大荒俣の産業図像学や「理科系の美術史」構想は大きな分水嶺だった。ぼくも今、「啓蒙における図解の威力史」をやろうとしている。丸善美術本カタログ『EYES』7号でその特集を、やる。日本の「専門」家がだめだから、ノーマン・ブライソンとか、海のむこうのニュー・アート・ヒストリーの人たちと直接つながろうとまでしている。お金と暇が必要だし、共生関係(?)をつくった形で丸善アート部門のお世話になっている。年間にダンボール箱で五つも六つもにもなる海外カタログを精読して、年二冊『EYES』を編集する。東急文化村の丸善アート・バザールもいよいよ好調だし、まあまあ、こちらの方ではぼくの企ては報われつつある。丸善小森高朗君に功労賞を呈したい。



それこそが本書の大主題だが、美術出版社の大活躍を中心に大いにもり上った一九六〇年代末のそうした美術史の夏が何故それほどホットでクレイジーだったかと言えば、たとえば一枚の絵なら絵を中心にまさに百学がバッと連環して集中的に議論する空気が、そこにできあがっていたからだ。紛争で、制度としての大学が機能停止であったのが、かえって幸いしたのだと思う。寺山修司を見、澁澤、種村を読み、言われなくても「街に出」た。店頭に漁る『みづゑ』や『パイデイア』といった雑誌が、ちょっと垢にまみれながら目のきらきらした知的ストリート・アーチンたちの、つまりは月ごとの「大学」だった。もの知り先輩につれられて神田の北沢書店古書部などというところへ出入りするようになった。なつかしいとしか言いようがない。その先輩が『シャーロック・ホームズの世紀末』で今をときめく富山太佳夫。時はたったということだ。

そういう、まさに「カーニヴァル」の季節のことを、いくつかの中心的な本、そうした本をとり巻く本たちの銀河系を通して記録しておこうというセクションを用意した。ロザリー・コーリーや山口昌男にいかに大きいものを負っていたか、こうしてまとめてみて改めて驚いた。感謝、しかない。

あとは、「普通言語」を核にして十七世紀後半に関心を持ったことに端を発する一連のエッセー。英文学をやってみると、ここが空白域。そして突然『ロビンソン・クルーソー』が出てくる、と人は言う。そんなバカな、と思って少しだけ測針を人れてみると、いきなり出てくるわ出てくるわ。おそらく二十世紀末を用意したのは十七世紀末なのである。文学が「情報」に化して巨大な情報文化の中にとりこまれていた事態が、「情報」感覚ゼロの旧套英文学に何も見えなかっただけの話だと知れた。デフォーの「リアリズム」と簡単に言うが、その「リアル」なものへの強迫はその前の半世紀の情報をめぐる危機管理の知の中にこそあった! もはや何者の「専門」でもありえない世界が見えてきた!

普遍言語構想なるものの存在を知り、コメニウス、ライプニッツと対応していった英国王立協会の実態を調べ始めた。先進の覇気に満ちた工作舎とタイアップして、ここいら周辺の本を日本語にしていった。十河(そがわ)編集長と石原剛一郎君、永遠なれ、である。普遍記号家としてのライプニッツを扱う雑誌特集を組み、『図書新聞』の新春放言でことしはライプニッツだ、と宣言した。大体そうなっていったが、いつのまにか「単独者」と「固有名」の倫理家ライプニッツとかいう議論に化してしまっていて、日本人てえのはよほどお道徳が好きなんだねえ、というので、仕掛けからはきれいさっぱり、おりた。ここでは西垣通氏と「出会え」たのが、なによりも楽しかった。「文」も「理」もさらさらと融かしていくあの駘蕩のスタイルが、うらやましい。

幻想もの、推理小説論……とにかく、よくもよくもと自ら感心するほど、ある。文化史の少し変わったものばかり集めて一本となし、四十路半ばのここいらで今までのすべてを集めようというぼくの企て全体のこの上ないパイロット・ブック、『ガラスのような幸福』をつくって下さった五柳書院店主小川康彦氏の報告では、コピー用紙にして十四センチの厚さになったのだとか。

(次ページに続く)
ブック・カーニヴァル / 高山 宏
ブック・カーニヴァル
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  • 装丁:単行本(1198ページ)
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