書評
『乱視読者の冒険―奇妙キテレツ現代文学ランドク講座』(自由國民社)
乱視読者の冒険
若島正の『乱視読者の冒険』を読んでいると、「ホメオパシー」という言葉がしきりに頭に浮かぶ。同毒療法、ある病症を治療するためにそれと同様の症状を起こす薬物を微量与えること。作品や作家が世界を見る目のかたより方をよりよく理解するために、若島正は自分の目をできる限り同じようにかたよらせようとする。普通ならシンパシー(共感)とかエンパシー(感情移入)とでも言うところだろうが、「病」に結びついた比喩こそ若島正にはふさわしい。たとえば谷崎潤一郎の短篇「呪はれた戯曲」の入れ子構造が論じられる際に問題になるのは、まさに病のメタファーだ。
語り手は「今此の物語を書かうとするに方つて、何だか私までが呪はれて居るやうな心地のするのを禁じ得ない。どうして私は、あんな陰瞼な、気味の悪い男を友達に持つて居たのか」と告白するが、その答は明らかだろう。本文中の言葉をここで引用するなら、それは「同病相憐む」である。悪とはリフレクトする病いなのだ
ミステリ/純文学のジャンル論と見せかけて、やがては谷崎文学における「悪」のテーマに到達するこの見事なエッセイを、若島正はこう締めくくる。
今この小論を終えようとするにあたって、何だかわたしまでが呪われているような心地がするのを禁じ得ない。どうしてわたしは、こんな陰険な、気味の悪いミステリという「呪はれたテクスト」を好んで読むのか。その答は明らかである。わたしもまた、悪に魅惑されているからだ
病は読み手にもリフレクトする。おそらく若島正にいわせれば、病まなければ読んだことにはならないのだ。かくして『フィネガンズ・ウェイク』の邦訳を論じるにあたっては、訳者柳瀬尚紀ばりの言葉遊びを(むろん本来の書評業務から逸脱することなく)連発し、『ウンベルト・エーコの文体練習』を書評すればしっかり書評の文体練習をしてみせる。より本格的なナボコフ論のなかの「ナボコフの息子たちは、ナボコフをポストモダニズムとの関連で論じたり、メタフィクションという用語を使って説明したりすることは絶対にない(誰が自分の父親をそんな言葉で語りたがるだろうか?)。それぐらいなら、彼らはただアスファルトの上の楕円形の水たまりの描写について語ったり、あるいはナボコフからジョン・アップダイクへと至る路線に連なるアメリカの新進作家ニコルソン・ベイカーが『UとI』(一九九一)でそうしたように、雪どけの朝の氷柱の雫の描写について語ることを選ぶのだ」という感動的な一節でも、対象と同じ病を患おうとする姿勢は変わらない。
したがって、当方が持ち出したホメオパシー、同毒療法という比喩は、半分は見当違いであることは明らかだろう。なぜなら若島正は治癒したいなどとは思っていないからだ。小説という病がどんどん悪化していって、もはや治癒不可能となることを夢見ているのだ――いや、もうなってるか。
この本は「書評」「論考」「J&N(ジョイス&ナボコフ)」「大学にて」の四部に分かれていて、どのセクションも面自い。「彼[=レイモンド・カーヴァー]が与えた教訓は、誰もが作家になれるということと、誰もが作家になれるわけではないという、相反するふたつの真史だったのである」といった鋭い指摘がごろごろ転がっている。唯一疑問なのは、ほかの文章に較べて執筆時期か相当古いピンチョン論とバース論が入っていること。この二つを書いていた時期の若島正はまだ健康的すぎる。いまだ病膏肓(やまいこうこう)に入っていないのである。一方、同業者としては、「大学にて」に現われる教師若島正の姿勢に勇気づけられる。うだうだ理念を振り回さない、「教師とは一種の接客業」という信念に基づく手間を惜しまぬ教育実践には、大いに共感するとともに、自分の怠慢を反省させられる。
最愛の書ナボコフの『アーダ』の最後の、"and much, much more"(もっと、もっと多くの)という言葉とともに、若島正はこの快著を終えている。我々もまた、今後若島正から"and much, much more"を期待する。
【この書評が収録されている書籍】
図書新聞 1993年9月11日
週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。
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