暗号解読とバッハの曲、絡み合う二つの物語
上下2段組で851ページの長編小説。重いので電車のつり革につかまって読むのには向かない。電子書籍版もまだ出ていない。稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)によると最近の若者は映画を早送りで観るそうだが、本作を斜め読みするのはもったいない。ゆっくり味わいたい。ぼくは読み終えるのに10日かかった。原題のThe Gold Bug Variationsはいくつかの連想を誘う。まずエドガー・アラン・ポー(ポウ)の短篇『黄金虫(The Gold−Bug)』。暗号を解読して財宝を探し出すミステリーで、子供のころ夢中になって読んだ記憶がよみがえる。bug(バグ)は昆虫という意味だが、コンピューター用語ではプログラムの誤りのこと。
そしてバッハの『ゴルトベルク変奏曲』。英語ではThe Goldberg Variations。チェンバロのために書かれた曲が、グレン・グールドのピアノ演奏でよく知られるようになった。ことば遊び(というかダジャレ)のような原題だけど、小説の内容も暗号解読とバッハの曲とプログラムミスが関係してくる。
小説は大まかにいってふたつの物語で構成される。ひとつはニューヨーク公共図書館司書のジャンの物語。彼女は利用者からレスラーという人物について調べてほしいと依頼される。レスラーは利用者自身の同僚で、年齢は50歳前後。過去に何かの分野で重要な仕事をしたらしい。それが何なのかを知りたいというのである。
図書館司書がそんなリクエストに応じるものかと思う人はフレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリー映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』をご覧あれ。3時間25分の長編だが、ぜひ早送りせずに。あの映画を観ると、同館の司書はあらゆる質問に答えてくれると分かるだろう。
調べたところ、レスラーは20代のころ優秀な生命科学者として未来を嘱望されていたらしい。なにしろアメリカの著名な雑誌『ライフ』に載るほど。レスラーが研究していたのはDNAの情報からどのようにタンパク質が合成されるか。つまりDNAの暗号解読だ。しかしレスラーは学界から姿を消し、いまは夜勤のコンピューター技師をしている。いったい何が起きたのか。この小説を貫く大きな謎である。
ジャンは調査を依頼したフランクリンと恋に落ち、レスラーの人柄にも魅せられていく。やがて彼らは3人で真冬の山荘に遊びにいくほどの仲になる。
この小説を構成するもうひとつの物語は、25年前、若きレスラーの研究と恋愛にまつわるもの。ジャンの物語の作中作のような位置にある。25歳のレスラーは研究に没頭しつつも、同じ研究室のジャネット――年上の人妻だ――と恋に落ちる。DNA解読のヒント、そして恋のきっかけになるのが『ゴルトベルク変奏曲』である。小説はジャンがフランクリンからレスラーの死を知らされるところから始まる。
ジャンとフランクリンの恋愛とレスラーとジャネットの恋愛という、四半世紀の時を隔てたふたつの物語が、DNAの二重らせんのように絡まり合いながら展開していく。比喩が多く、さまざまな引用があちこちにある。ていねいな訳注に助けられる。分子生物学や遺伝学についての記述も多い。レスラーに興味を持ったジャンは、独学でこの分野の勉強を始める。いかにも図書館司書の習性だけど、この独学部分のおかげで、ぼくのように科学方面に不案内な読者もなんとかついていける。
レスラーの物語の舞台は1957~58年のイリノイ州。ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を解明した4年後だ。ジャンの物語は83~86年ごろのニューヨーク。グレン・グールドが『ゴルトベルク変奏曲』で衝撃的なレコードデビューをしたのが56年。まったく違う解釈で再録音したのが81年。そして、脳卒中により50歳で亡くなったのが82年。今年はグールド生誕90年、没後40年。小説は『ゴルトベルク変奏曲』と同じくアリアで始まり、30の章(変奏?)ののちアリアで終わる。ただし、小説にグールドの名前は出てこない。
この小説は長いけれども斜め読みするのはもったいない、と冒頭に書いた。それどころか、何度も読み返すことを要求する小説である。いちど最初から最後まで通読して、再度、冒頭から読み直すと「そうか、そういうことだったのか!」という発見が多い。
原著がアメリカで刊行されたのは91年。ぼくが本作について知ったのは2000年だった。パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』(柴田元幸訳、みすず書房。現在は河出文庫)が出て、ちょっとしたお祭り騒ぎになった。『パワーズ・ブック』(みすず書房)という、パワーズの全貌を伝える本も出て、若島正が「『黄金虫変奏曲』をめぐる変奏曲」というエッセイを寄稿。ぼくは読まずに死ねるかと翻訳を待ち焦がれていた。待った甲斐(かい)があった。生きててよかった。