前書き

『ブック・カーニヴァル』(自由國民社)

  • 2017/09/17
ブック・カーニヴァル / 高山 宏
ブック・カーニヴァル
  • 著者:高山 宏
  • 出版社:自由國民社
  • 装丁:単行本(1198ページ)
  • 発売日:1995-06-00
  • ISBN-10:4426678005
  • ISBN-13:978-4426678005
内容紹介:
とにかく誰かの本を読み、書評を書き続け、それがさらに新たなる本や人との出会いを生む…。「字」と「知」のばけもの、タカヤマが贈る前代未聞、厖大無比の書評集。荒俣宏、安原顕ら101名の寄稿も収載した、「叡知」論集。

ブック・カーニヴァル 祝祭開宴のロ上

A sadder and a wiser man , He rose the morrow morn
............S.T.Coleridge

何かをではなくて、いかにかという人間知識の形態そのものに関心がある。本来そうでなくてはならないと思うが、実際にはそういう関心を活かしてくれる場がない。残念ながら現在、教育機関のどこにも、そういう「部門」も時間もない。

従って、ぼくは知の漂流者、どこにも属さずふらふらと知識の宇宙をさまよい行く、知の宇宙海賊ハーロックみたいに考えられているらしい。尊敬すべきほとんど唯一か唯二の大先達、山口昌男氏がどこかであいつは「知の遊び人」だと書いたのがきっかけで、とりとめなく見える高山に対する評価の仕方が、一応は感心しておいて、こいつは仕方がない奴だ、なにしろ「知の遊び人」だから、というふうにまとめる形が「確立」してしまった。遊び人、か。遠山金四郎の映画をみるたび、ぼくのどこが遊び人だ、と思ったりするわけだ。おいらも、サクラ吹雪の彫りものでも、すっか!



とにかく何にでも関心が向いてしまうのだ。相手の学問的評価の大小など何の関係もない。その場合に言う「学問的」ということ自体、最初(はな)から嗤(わら)ってしまっているし、「大小」というその「大」なるものが根本的にいけすかない。そもそもが一九七X年に世が終るという千年王国セクトの最前線で愚かな布教軍団の一員として、あのまま突っ走っていればよかった人種なのだ。まことに優秀な布教者だった。カリスマ・パワーもあるし、なにしろ口八丁手八丁だったから。それが問題の七X年に世が終らなかった! 大学紛争の渦中にもあった。人並みにゲバ棒もふった。炎上する大学を眺めながら、さあ、いよいよ世が終る段階に世界は突入していくぞ、などと思っている奇妙奇天烈な「一部暴力学生」だった! 「ノン・ポリ」を、死ぬほど憎んだ。

結局は、すべて「愚か」だった。四十路(よそじ)半ば、ふとふり返ってみて、そう言えるが、その時間、その時間を、フル・スロットルでかけぬけたので、微塵の悔いもない。その時点、その時点で、愚かさの見えてしまう奴は、とても可哀想だ。



気がついてみると、大学にいた。気がついてみると、としか言いようがない。車だとかミシンだとかのセールスマンになっていたら大成功してたんじゃない? と、よく言われた。自分でも、そう思う。学生なんかより世間をたぶらかして歩いている方がずっと面白いに決まっている。

利権三昧の理科系の一部部門を除いて、今の大学はまさしくスリーピーホロウ。みんな「寝たぼけて」いる。いかにそうか、はもう世間でも少しは知られているだろう。とにかく世間さまと余りにもかけ離れているのだ。ぼけ爺と、知識おたくの鼻ッたれの集合体。

心から尊敬するもうひとりが荒俣宏。産業から知の世界に人ってきて、「知」を「業」の方向に開こうとしている彼は、デフォーの族(うから)、とひそかに名づけて変らぬ関心を持っている、知識と商業のはざまに生きるタフ・ガイの理想の姿であり続けている。なんだか二人でいると、老いることと死ぬことばっかり話してるような気もする。どっちが早くくたばって、どっちが相手の葬儀委員長になるか。やっぱりだめ、なのかもね、とか。

そういうの、大学の中にも皆無というのでもなくて、たとえば中沢新一さん。彼の授業を聞ける学生は「大儲け」だ。こいつは世間でも生きていけるタイプだな、と感じる。

荒俣を無視し、中沢を例外と化すことで、大学は安泰だ。ほんとうに、そうかい? それが問われる時が刻々と、やってきている。「芸」のない道化は、食いつめるしかない。せめては、おれは道化なんかじゃないと言って若い人にいばりちらすのだけでも、やめておくれ。クズはクズらしくしてればいいじゃない。

人は何を知るか、ではなくて人はいかに知るか、知ってきたかという途方もないことに関心を持つとたん、たとえば大学の中では身の置きどころがなくなる。まさに「いかに」という「方法」そのものを問うたベーコンから十七世紀半ば、「見えない大学」がうまれ、近代の知識の諸制度ができたというのに、である。「知の空中分解」、旧套知識界のある論者は、うれしそうにぼくをそう評した。

「専門」という、わけのわからないものがあってしまうのだ。そりゃ、わたしは……を専門にしていますと言った方が、いろいろ納まりのいい世界だということはよく知っている。でも、何か今までだれも知らなかったことに気付いて、それを「いかに」というゼロ次元から考え始めるやいなや、専門とかいう約束事がたちまち邪魔になっていく。そのあたりのことで大変な苦労をし、それを突破し百学連環の知のスープ状態をつくりだしていった人々へのオマージュをもって、この高山宏の『ブック・カーニヴァル』をオープンいたしたいと思うしだいだ。コールリッジのサスケハナ・プロジェクトとエンサイクロペディア・メトロポリターナ・プランにそうした汎智のユートピアを幻視していた由良君良氏との出会い、山口昌男氏の小さな巨著『本の神話学』の学恩への御礼のごあいさつ、である。「出会い」が、そこのキーワードだ。ヒストリー・オブ・アイディアズもワルブルク・インスティテュートもエラノス・ヤールブーフもグリニッジ・ヴィレッジもすべて、いかに新しい知が人と人の出会いからしかうまれないかという一見当り前のことを、絢燗と謳いあげてくれたすばらしい空間だった。そこを実によく分かって、現にそのラインの名著名作を次々とシステマティックに日本語にしていってくれる平凡社編集部の怪人二宮隆洋氏にも、この場を借りて満腔の謝意を述べておきたい。くそっ、絶対セールスマンになってやると思っていたぼくを「こちら側」にとどめてくれた『観念史辞典』邦訳の企図は、ひとり二宮あって可能となった。編集という作業がまた、幾重にも「出会い」の作業であることを知る林達夫、小野二郎のエディター魂がこの男の中には烈々と生きているのだ。

(次ページに続く)
ブック・カーニヴァル / 高山 宏
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  • 著者:高山 宏
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  • 装丁:単行本(1198ページ)
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  • ISBN-10:4426678005
  • ISBN-13:978-4426678005
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とにかく誰かの本を読み、書評を書き続け、それがさらに新たなる本や人との出会いを生む…。「字」と「知」のばけもの、タカヤマが贈る前代未聞、厖大無比の書評集。荒俣宏、安原顕ら101名の寄稿も収載した、「叡知」論集。

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