書評
『木山さん、捷平さん』(新潮社)
赤ん坊のような暖かさ
「濡縁におき忘れた下駄に雨がふつてゐるやうな/どうせ濡れだしたものならもつと濡らしておいてやれと言ふやうな/そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた。」齢五十を過ぎてなお文壇的不遇をかこちながら、それをこんなふうにやんわりと突き放して眺める術を心得ていた木山捷平の世界が、死後三十年近くを経過して、あたらしい世代から、熱い支持を受けはじめている。
一九〇四年、岡山県笠岡市に生まれた捷平は、地主であった実家の農業を継がずに文学を志し、二十代で上京。平明きわまりない言葉遣い、独特のユーモアとエロスで郷里の風物をうたった詩集『野』(一九二九)、『メクラとチンバ』(一九三一)によって詩人として出発した。やがて散文へと進み、おなじく文学の夢に破れて家業を継がざるをえなかった父親との軋轢(あつれき)、太平洋戦争時に満州で嘗めた辛酸、戦後の貧窮生活を糧に、急がず騒がず、時流に乗らないのではなく、乗りたくても乗れない生理を、ときに苦々しく、ときに楽しく持てあましながら、忘れがたい佳品を残した。
『全詩集』をはじめ、「氏神さま」「耳学問」「河骨(こうほね)」「苦いお茶」などが手軽な文庫版で復刊されるにつれて、目立たないこの作家の実像に迫ろうとする試みも散見されるようになったが、岩阪恵子の『木山さん、捷平さん』は、木山捷平という詩人・作家に出会えた幸福を、著者が謙虚に、そして節度をもってかみしめている点で、類書とはひと味ちがった魅力を発している。
日常生活においては徹底的に不器用な男が、ひとたび言葉で現実をとらえると、誰が見ても悲惨としか思えない光景の「輪郭がぼかされ、仰々しさもえげつなさも薄められ、日常の細部から逆に生き生きとした温かなものさえ感じられてくる」。岩阪氏はその秘密が、「根本のところで人間を肯定している」姿勢と、「うんざりするほど不様で、やりきれないほど哀しい、そんな人間にたいする愛着」にあると説き、木山捷平の一生をたどりつつ度の過ぎた介入は避け、不明な部分は不明と認めたうえで作品の理解に役立つうまみだけを取りあげる。
最大の功徳は、引用だ。たくみな引用を通して、著者は木山捷平の世界とはじめて対面する読者にも、すでにひそかなまじわりを結んでいる読者にも、作品に立ち返るよう気持ちよく誘う。
とりわけ詩の扱い方がいい。むやみと自己主張せず、どんな場所にもおだやかに居座るような捷平の詩を地の文に取り込むには、力まないことが不可欠の条件だ。上滑りした言葉やしかつめらしい評言を使えば、たちまち足をすくわれる。そういう詩と歩調を合わせてなおかつ弛(だ)れない文章をつづるのは容易ではないはずだが、岩阪氏はいくらか感傷的な表題をきれいに裏切る落ちついた筆致でそれを実現してみせた。
本書のもうひとつの特色は、捷平の伴侶であり、「雨」や「茶の木」など晩年の名品の登場人物でもある妻みさをへの間接的な讃辞があちこちに隠されている点だろう。無謀としか思えない敗戦まぎわの満州行きを黙って見送り、引き揚げを待って田舎での農作業に耐え、戦後は好んで貧乏籤(くじ)をひきつづける夫の創作活動を陰で支えた彼女の存在がなければ、木山捷平の横顔はもっと翳りを帯びていたはずである。
《旅でよごれた私のシヤツを/朝早く/あのひとは洗つてくれて/あのひとの家の軒につるした。/山から朝日がさして来て/「何かうれしい。」/あのひとは一言(ひとこと)さう言つた。》馴れ初めのころをうたったこの「白いシヤツ」が引かれるあたりには、むしろ夫人へのあたたかな想いが漂っている。「木山さん、捷平さん」という、親しみをこめた呼びかけは、だから木山捷平への愛の表明であるとともに、夫人への傾倒の証でもあるのだ。
「何か赤ん坊のような暖かさだね」。六十四年の生涯を閉じた捷平の骨壷を抱いて夫人が漏らしたという一言が、読後しばらく頭から離れなかった。
【この書評が収録されている書籍】
週刊文春 1996年8月29日
昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。
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