書評

『ノンセンスの領域 (高山宏セレクション〈異貌の人文学〉)』(白水社)

  • 2017/12/11
ノンセンスの領域  / エリザベス・シューエル
ノンセンスの領域
  • 著者:エリザベス・シューエル
  • 翻訳:高山 宏
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(438ページ)
  • 発売日:2012-10-24
  • ISBN-10:4560083029
  • ISBN-13:978-4560083024
内容紹介:
本当は怖ろしいノンセンスの世界-『不思議の国のアリス』やエドワード・リアの戯詩は厳格なゲームの規則に支配されている。分析的知によって人間と世界を引き裂くノンセンスの正体を明らかにした名著。関連エッセー2篇を併録した決定版。

ノンセンス・ブームにちょっと警告

エリザベス・シューエル『ノンセンスの領域』の領域

雑誌『ユリイカ』の「ノンセンスの王国」特集のために、『ノンセンスの領域』(一九五二)の著者エリザベス・シューエル女史(一九一九-)の最近の短いノンセンス論「キャロルの作品と現代世界にみるノンセンスのシステム」を訳したが、それにふれて、少し女史のことを述べておきたい。このエッセーは、『ノンセンスの領域』の結論と問題性をこもごもに要約したがごとき一篇であるからだ。

ノンセンスを文化現象としてこれに対する立場には大別して二つあるようだ。一は既成文化のつくりあげている文脈(コンテクスト)もろもろを一時解体する「文脈はずし」ないし異化作用によって、硬直に陥っている当該文化を更新せしめる有効な文化装置としてノンセンスを積極的に評価する立場である。七〇年代全体を席捲したこの「文脈はずし」議論の中で、ノンセンスは単に「詩的言語」としての範疇を超えて、祝祭やらサーカスやら、エイゼンシュタインやらハーポ・マルクス、エリック・サティ……実に夥しい「文脈はずし」装置全体とかかわるキー・コンセプトにのし上った感がある。道化を身振りする言語としての「詩的言語」=ノンセンスというこうした立場は、折からの「学際的」風潮に煽られて実に旺盛な議論を生み出してくれたと思うが、その効果たるや余りに強烈かつ多産で、はずすべき文脈が見えなくなってしまった――或いは先人たちにはずされ過ぎて(!)文脈の残りが少なくなった(?)――今の今でも、まだ「はずせ、はずせ」という強迫観念に実は僕なども追い回されている有様である。事情は海彼でも同じようであって、S・スチュワート、B・バブコックといった人たちの新着ノンセンス論をのぞいても、文化人類学やら構造主義やら、方法と言わず素材と言わず実に屈託なく「文脈はずし」三昧に余念がない。「はずす」ことが確かに強烈な喜びとショックをもたらしてくれた時代は本当にまだ続いているのだろうか。「はずされ」慣れた世界が相手でははずすことさえもまた自動化し、空洞化していくのだろうか。

一個の知的ファッションと化し、言わば横ざまにのんびり広がって止まるところを知らぬそうした「学際的」「共時的」ノンセンス論に垂直から真っ向うに楔(くさび)を打ちこむ感があるのが、シューエルのノンセンス論である。文化現象としてノンセンスに対する二つの立場のもう一つをシューエルが代表している。代表していると言っても、道化的ノンセンス万歳、文脈はずしノンセンス万歳の大合唱の中ではどうしようもなく少数派であり、異端である。シューエルはノンセンスを拒否し、それを詩的想像力によって克服されなければ早晩人類を滅ぼす知性の傲慢の構造であると言って憚らない。議論のスケールと危機感が、てんでちがっているのだ。シューエルのノンセンス論のあちこちを切り取ってきて自前のノンセンス論に接木しても、かえって文化に対する自らのあられもないオプティミズムを浮き彫りにされるのがオチである。第一次大戦直後に生を享(う)け、ヨーロッパの終末をその目で確認した怖るべく明敏な知性があって、では何が原因で何をすべきなのかという真摯かつ執拗な思索を積み重ねたその結果が、『ヴァレリー』『詩の構造』『ノンセンスの領域』『オルペウスの声』『人間的メタファー』と続くシューエルの名作群であって、『ノンセンスの領域』だけを取り出して云々しても仕方ないほど一本の強靭な――「頑迷な」、と人は言う――絆で全作品がつなぎあわさっている。彼女ほど「学際」から遠い人も少ない。借りものの用語は彼女の批評の中には一つもない。なぜか。第一次大戦終了の翌年に生まれ、第二次大戦下に青春を送ったシューエルの周りは、かつてヨーロッパを築いてきた筈のもろもろの知の瓦礫しかなかった。この文化のゼロ度をこそ寧ろ己が拠って立つ方法的基盤としたのがシューエルである。批評的武器ゼロ、ただ「考えるとはどういうことか」というゼロ地点から一切を考え始める自分一人の頭脳だけが彼女の武器であった。ちょっと危うい病院にもいたことがあるらしい。

「文脈はずし」論は「はずす」べき文脈が確かにあるという前提が全てだが、シューエルの前には体制やら文脈やらという確かな相手は何ひとつなかったのだ。自分たちが「周縁」から嗤(わら)うべき確かな「中心」があるという甘やかな幻想はありえず、中心がないのだという確かな実感があったのである。現在のノンセンス論がこぞって嗤(わら)いの対象としてつけ狙っている「偉人な公共制度」に、寧ろ強烈な憧憬の目を投げかけていたのがアルマゲドン(終末戦争)の焦土にいたシューエルなのであって、文化に対する祈念のひたすらさがどだい違っているのだから、『ノンセンスの領域』を凡百のノンセンス論と同日に論じるのは益ないことであろう。借り着のノンセンス論者がはずすべく悪戦苦闘している当の硬直した文化そのものが、シューエルによれば他ならぬノンセンスによって作り出され、推し進められてきているということになる。

たしかにノンセンス論の二つの立場は細部の分析では似たところがある(シューエル以後の論は皆ちゃっかりシューエルから「頂い(パクっ)」ているのだからこれは当然)。『ノンセンスの領域』でキャロル的知性と自らを同化させてみることでシューエルがつきとめたノンセンスの構造は、つまり多様な次元での「一たす一たす一」(分析と分解)の構造であった。ノンセンスでは言葉の各部分がバラバラになり、人物たちはお互いにギスギスし、各種組合せもチグハグだが、これら全て、「一たす一たす一」という原構造のしからしむところである、とシューエルは結論した。現在のノンセンス論なら、この「一たす一たす一」を寧ろ「異化」の効果と称して積極的に評価するだろう。われわれをべったりした日常性から「醒め」ないし美的「距離」へとつれだしてくれる異化の文化装置とわれわれが言うその同じ「一たす一たす一」が、シューエルにとっては「一たす一たす一」に分断された人間たちの孤独という重い実存的現実の象徴であったのだ。ノンセンスをうみ出した同じ構造が現代西欧文明の終末と個人の孤独をうみだしているのだと彼女は考える。現在海のあちらとこちらで姦(かまび)すしいノンセンス論の祝祭の只中、シューエルは一個のブラックホールのごとく、容易に取りこまれるのを拒否する存在である。史上空前の虐殺をもたらした世界戦争とナチスの人類的犯罪にこだわり続けるシューエルのノンセンス論は、どこまでも「頑迷」である。女史自身も黒人差別問題などに関して仲々頑固な奇人(?)であると聞く。

一九七六年発表のエッセー「キャロルの作品と現代世界にみるノンセンスのシステム」においてもその立場は全く変わっていない。変わっていないどころか大戦以降ますますヒューマニズムが後退していく時代の趨勢の中で、「一たす一たす一」の構造に対するシューエルの危惧の念はますます強くなっているようである。ノンセンスの構造にからめとられた二十世紀の終末にあって、ノンセンスと詩、分析的知と総合的知、(ブレイクにこと寄せて引き合いに出される)ユリゼンとロスの和解を祈念するシューエルの批評は、さかしらな「文芸批評」のレッテルを嗤(わら)いながら、壮大な人類史の一大ヴィジョンに化すと言っても過言ではない。いみじくもシューエル白身ブレイクを引きあいに出しているわけが、『ヴァレリー』以下の批評作品は全体としてウィリアム・ブレイクの予言書やオラーフ・ステイプルドンの黙示小説のごとき驚嘆すべき射程に、西欧近代の「知」の傲慢のドラマを捉えているのである。ノンセンスが破滅させようとしている人類を、詩的想像力が、宇宙的舞踏が、魔術が救うとシューエルは言うが、そんな無形の力で救われるものかと言う人には、もはや何をか言わんや。ヴィジョンの何なるか知らない魂は変容の恩寵にあずかることのないあさましい魂であるから。一体「はずして」もらい、「異化」してもらったところで、その後の「醒めた」目で何を見ようと言うのか、祈る手をもたぬノンセンス論の空無を、『絶望と確信』のG・R・ホッケと、『ノンセンスの領域』のE・シューエルから学ぶ必要がある。

【この書評が収録されている書籍】
ブック・カーニヴァル / 高山 宏
ブック・カーニヴァル
  • 著者:高山 宏
  • 出版社:自由國民社
  • 装丁:単行本(1198ページ)
  • 発売日:1995-06-00
  • ISBN-10:4426678005
  • ISBN-13:978-4426678005
内容紹介:
とにかく誰かの本を読み、書評を書き続け、それがさらに新たなる本や人との出会いを生む…。「字」と「知」のばけもの、タカヤマが贈る前代未聞、厖大無比の書評集。荒俣宏、安原顕ら101名の寄稿も収載した、「叡知」論集。

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ノンセンスの領域  / エリザベス・シューエル
ノンセンスの領域
  • 著者:エリザベス・シューエル
  • 翻訳:高山 宏
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(438ページ)
  • 発売日:2012-10-24
  • ISBN-10:4560083029
  • ISBN-13:978-4560083024
内容紹介:
本当は怖ろしいノンセンスの世界-『不思議の国のアリス』やエドワード・リアの戯詩は厳格なゲームの規則に支配されている。分析的知によって人間と世界を引き裂くノンセンスの正体を明らかにした名著。関連エッセー2篇を併録した決定版。

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初出メディア

ユリイカ

ユリイカ 1981年5月

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