書評
『時が滲む朝』(文藝春秋)
移動は二十一世紀の人類の生き方を大きく変えようとしている。わたしがいま滞在しているボストン郊外の本屋の一角に、日本の漫画本が数多く置かれており、地元の中学校の生徒たちは翻訳されていないコミックブックまで熱心に読んでいる。物だけではない。ビジネス、就職、教育、婚姻、理由はさまざまだが、生まれ育った場所から離れて生きることはいまや珍しくなくなった。幼年期に移住を経験した人たちにとって、母語の概念さえ自明のものではなくなっている。言語の越境はわれわれの想像を超え加速度的に進んでいる。本書もそのような時代の奔流のなかで生まれたものであろう。
梁浩遠(リヤンハウユエン)と謝志強(シエーツーチャン)は高校時代からの親友で、中国西北部の農村からともに地元の大学に進学した。一九八〇年代の末、民主化を求める運動に加わり、若手教授の甘凌洲(カンリヨウチヨウ)に率いられ、北京までデモに行く。天安門事件の後、二人は大学から退学処分を受け、甘凌洲らは海外に亡命した。梁は日本人残留孤児の二世と結婚して来日したが、海外の民主化運動の実情を知るにつれ、徐々に幻滅していく。
日本語を母語としない作家が書いた作品にしてはなかなかの出来映えである。前作に比べて、言語運用能力が洗練されている。文体に対し細心の注意が払われていることは、個々の言葉の使い方からも窺える。成人してから日本語を覚えた者にとって、小説を書くにはドン・キホーテのような蛮勇と語学の天分が必要だ。そのハードルを軽々と乗り越えてしまう強靭な意志には脱帽する。
優れた小説であるかどうかは、オリジナリティがあるかどうかにかかる。読者はつねに魂が揺さぶられたような、斬新な言語体験を求めている。その期待の水平に近いほど、共鳴が得やすい。
しかし、文学は文体だけで成り立つものではない。器に盛られる中味のほうがより重要である。物語の構成や展開の仕方、登場人物の喜怒哀楽の描写も作品の出来映えを大きく左右する。
小説の文体と違って、作品の内容構想において書き手は言語の制約をあまり受けない。日本語を母語とする作家でも、そうでない作家でもほぼ平等に競える領域である。
この小説を読むとき、なぜか前作の『ワンちゃん』が脳裏を去来する。『ワンちゃん』は題材選択の着眼がよい上、登場人物がよく描けている。言語表現においてやや気になるところがあるとはいえ、ワンちゃんはまるでどこかで会ったことがある人のように、生き生きとしている。彼女の言うこと、することには何も不自然さを感じさせない、いい小説は架空のことを実際に起きたことのように錯覚させることができる。「ワンちゃん』はこの点で成功している。
この作品も物語の構成はよく推敲されている。しかし、ストーリーに新味がないのが残念である。とくに天安門事件が起きた後の展開にはもうひと工夫がほしい。生活体験の欠如を想像力で補うには、布置の周到さが求められる。主人公の梁浩遠が来日してから東京の民主化活動に参加する部分の叙述は、物語全体の流れから浮いている。問題は事実のままに描いたかどうかではない。距離感をどのように把握し、表現するかである。天安門事件を描くならば、青年たちにとって、この歴史的な出来事がなぜ魂の洪水であったかについて描かなければならない。「民主化の追求」という表面的なことを描くだけでは、浅薄感を免れない。それに比べて、梁と謝志強や甘凌洲との再会を描いた第十章のほうが遙かにリアリティがある。
作家は生に対する深い洞察力を持たないと、よい作品を書けない。小説は言葉の芸術であって、思想信仰を表現する道具ではない。書き手の信条や価値観の如何にかかわらず、生を描けたかどうかが作品の善し悪しを判断する唯一の基準である。
アメリカは自由で豊かな理想国家である、と思いこんでいる梁浩遠のナイーヴさは、ナイーヴさとして書けていないところに遺憾が残る。アメリカの中国人民主化運動家たちがみな清廉潔白で、高邁な理想のために一致団結して戦っている、というくだりも事実と掛け離れている。細部のあしらい方の問題とはいえ、あえて現実と正反対に設定する根拠は見あたらない。
何やら手厳しい批評になってしまったようだが、わたしは何もこの作品を貶(けな)すつもりはない、母語でない言葉を使って小説を書くことにはむしろ敬意を抱いている。ただ、無用な文体の粉飾のために、もっと大事なことが忘却されたのではないかと危惧しているだけである。
わたしはこの小説よりも、『ワンちゃん』のほうに興味を持つのは、後者における言語規範からの乖離である。かりに言語表現の「劣化」が文化適応の一局面であるならば、暴力的な「矯正」よりも、その理由を吟味し、クレオール化を包容することが大事である。そのことによって日本語に秘められている豊かな創造力を見いだせるかもしれない。言語の「純粋さ」に近付くことは果たして越境する作家にとって必要なのか、それとも単に凡庸さへの妥協しか意味しないのか。そのことについて今後、じっくり考えなければならないであろう。
【この書評が収録されている書籍】
梁浩遠(リヤンハウユエン)と謝志強(シエーツーチャン)は高校時代からの親友で、中国西北部の農村からともに地元の大学に進学した。一九八〇年代の末、民主化を求める運動に加わり、若手教授の甘凌洲(カンリヨウチヨウ)に率いられ、北京までデモに行く。天安門事件の後、二人は大学から退学処分を受け、甘凌洲らは海外に亡命した。梁は日本人残留孤児の二世と結婚して来日したが、海外の民主化運動の実情を知るにつれ、徐々に幻滅していく。
日本語を母語としない作家が書いた作品にしてはなかなかの出来映えである。前作に比べて、言語運用能力が洗練されている。文体に対し細心の注意が払われていることは、個々の言葉の使い方からも窺える。成人してから日本語を覚えた者にとって、小説を書くにはドン・キホーテのような蛮勇と語学の天分が必要だ。そのハードルを軽々と乗り越えてしまう強靭な意志には脱帽する。
優れた小説であるかどうかは、オリジナリティがあるかどうかにかかる。読者はつねに魂が揺さぶられたような、斬新な言語体験を求めている。その期待の水平に近いほど、共鳴が得やすい。
しかし、文学は文体だけで成り立つものではない。器に盛られる中味のほうがより重要である。物語の構成や展開の仕方、登場人物の喜怒哀楽の描写も作品の出来映えを大きく左右する。
小説の文体と違って、作品の内容構想において書き手は言語の制約をあまり受けない。日本語を母語とする作家でも、そうでない作家でもほぼ平等に競える領域である。
この小説を読むとき、なぜか前作の『ワンちゃん』が脳裏を去来する。『ワンちゃん』は題材選択の着眼がよい上、登場人物がよく描けている。言語表現においてやや気になるところがあるとはいえ、ワンちゃんはまるでどこかで会ったことがある人のように、生き生きとしている。彼女の言うこと、することには何も不自然さを感じさせない、いい小説は架空のことを実際に起きたことのように錯覚させることができる。「ワンちゃん』はこの点で成功している。
この作品も物語の構成はよく推敲されている。しかし、ストーリーに新味がないのが残念である。とくに天安門事件が起きた後の展開にはもうひと工夫がほしい。生活体験の欠如を想像力で補うには、布置の周到さが求められる。主人公の梁浩遠が来日してから東京の民主化活動に参加する部分の叙述は、物語全体の流れから浮いている。問題は事実のままに描いたかどうかではない。距離感をどのように把握し、表現するかである。天安門事件を描くならば、青年たちにとって、この歴史的な出来事がなぜ魂の洪水であったかについて描かなければならない。「民主化の追求」という表面的なことを描くだけでは、浅薄感を免れない。それに比べて、梁と謝志強や甘凌洲との再会を描いた第十章のほうが遙かにリアリティがある。
作家は生に対する深い洞察力を持たないと、よい作品を書けない。小説は言葉の芸術であって、思想信仰を表現する道具ではない。書き手の信条や価値観の如何にかかわらず、生を描けたかどうかが作品の善し悪しを判断する唯一の基準である。
アメリカは自由で豊かな理想国家である、と思いこんでいる梁浩遠のナイーヴさは、ナイーヴさとして書けていないところに遺憾が残る。アメリカの中国人民主化運動家たちがみな清廉潔白で、高邁な理想のために一致団結して戦っている、というくだりも事実と掛け離れている。細部のあしらい方の問題とはいえ、あえて現実と正反対に設定する根拠は見あたらない。
何やら手厳しい批評になってしまったようだが、わたしは何もこの作品を貶(けな)すつもりはない、母語でない言葉を使って小説を書くことにはむしろ敬意を抱いている。ただ、無用な文体の粉飾のために、もっと大事なことが忘却されたのではないかと危惧しているだけである。
わたしはこの小説よりも、『ワンちゃん』のほうに興味を持つのは、後者における言語規範からの乖離である。かりに言語表現の「劣化」が文化適応の一局面であるならば、暴力的な「矯正」よりも、その理由を吟味し、クレオール化を包容することが大事である。そのことによって日本語に秘められている豊かな創造力を見いだせるかもしれない。言語の「純粋さ」に近付くことは果たして越境する作家にとって必要なのか、それとも単に凡庸さへの妥協しか意味しないのか。そのことについて今後、じっくり考えなければならないであろう。
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