書評

『百年の散歩』(新潮社)

  • 2017/07/12
百年の散歩 / 多和田 葉子
百年の散歩
  • 著者:多和田 葉子
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(246ページ)
  • 発売日:2017-03-30
  • ISBN-10:4104361054
  • ISBN-13:978-4104361052
内容紹介:
わたしは今日もあの人を待っている、ベルリンの街を歩きながら。歴史と世界が交差する都市に生きる人間の孤独と自由を描く連作長編。

言語的「すずろ歩き」

思索する散歩者を思えば、カントやダーウィンのように決まった時間にほぼ決まったルートを勤勉に歩くタイプと、ベンヤミンやボードレールや荷風のようにすずろ歩きをするフラヌール(遊歩者)のタイプがあるのではないか。多和田葉子はイメージとしては後者で、世界を股にかけた「思索散歩者」であり、多言語の間を気の向くままに行き来する真摯(しんし)なフラヌーズ(女性遊歩者)である。

多和田葉子のことばのフラヌリ(遊歩・漫歩)哲学を至極よく表しているのは、福島・奥会津でのこんな逸話だ。この地方は「抑揚の存在しない土地」で「橋」と「箸」と「端」の区別がないと聞いたとたん、氏の中では、「自分の育った発音体系の中では区別がなされない二つの単語(タンゴ)がくっついて踊り出す。そこに産婆(サンバ)が駆け付けて、新しいアイデアが生まれる」(『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』)。

そんな作者の言語遊歩の“すずろぶり”がいかんなく発揮された書が、『百年の散歩』だ。「マルティン・ルター通り」「プーシキン並木通り」「マヤコフスキーリング」など、人名を冠したベルリンの十の通りを歩き、彷徨(さまよ)い、横道に逸(そ)れ、迷い、ときどき店屋や飲食店に入る。読者は冒頭から、不意打ちを食らうだろう。

「わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた。カント通りにある店だった。店の中は暗いけれども、その暗さは暗さと明るさを対比して暗いのではなく、泣く、泣く泣く、暗さを追い出そうという糸など紡がれぬままに……」「……『おつまみ』という概念はなく、おつまず、つままず、つつましく、きつねにつままれ、つまらなくなるまで話し続けた」

なんだか、「川走(せんそう)、アダムとイブ礼盃亭を過ぎ、く寝る岸辺から輪ん曲する湾へ」と始まり、あらゆる言語とその歴史が取っ組みあい、睦(むつ)みあい、輪になって踊る、ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』の柳瀬尚紀訳を読んでいるような心持ち。言語連想、ダブルミーニング、地口、洒落(しゃれ)などなど、ことばは自在にフラフラ、フラヌリする。作者の表現を借りれば、脂肪のないことばたちはときに肉肉しく、ときに知で赤く濡(ぬ)れている。

F・ヘッセルは「散歩とは一種、道を読み解くことだ」と言ったそうだが、本書では、道を歩けば歩くほど様々なヨミとイミ、隠れたヒユが見えてくる。アンヨはアンユを連れてくる。過去と現在が溶けあって、ベルリンの壁が甦(よみがえ)り、築百年の区役所の外壁の色をどう呼ぶか語り手は熟考し(銀煤竹(ぎんすすたけ)か黄雀茶(きがらちゃ)か?)、公園のビラには、アロマ油、魔除(まよ)け、風水などなど、「腐敗の始まった果物の異臭を放つ言葉の群れ」が並んで、「意識フェア」と銘打たれ、語り手の身体は幼児のように縮んだかと思うと、ロシア赤軍が「ベラルーシュークリーム」「ショコラトビア」などの戦利品ケーキの分け前を確保しようとし、移民問題に関わる「立ちション事件」が語られ、ごた混ぜになったドイツとベルリンの長い歴史には轢死(れきし)があり礫死(れきし)があり、今後もないとは言いきれない。

語り手は謎の「あの人」をずっと待っている。随所の記述をつなぐと、長くベルリンに暮らしているが、旅に出がちで、シェイクスピアと似た響きの名前をもち、学生時代は壁の西側にいた人らしい。本当に待ち合わせなどしているのかわからない「あの人」は、作者の想(おも)い人かもしれないし、ゴドーのような何かに読み換えもできるし、読み解かれなくても一向にかまわない。名前から自由であるとはそういうことだ。
百年の散歩 / 多和田 葉子
百年の散歩
  • 著者:多和田 葉子
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(246ページ)
  • 発売日:2017-03-30
  • ISBN-10:4104361054
  • ISBN-13:978-4104361052
内容紹介:
わたしは今日もあの人を待っている、ベルリンの街を歩きながら。歴史と世界が交差する都市に生きる人間の孤独と自由を描く連作長編。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2017年5月7日

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