書評

『騎士団長殺し』(新潮社)

  • 2018/01/02
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編 / 村上 春樹
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(512ページ)
  • 発売日:2017-02-24
  • ISBN-10:410353432X
  • ISBN-13:978-4103534327
内容紹介:
その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた……それは孤独で静謐な日々であるはずだった。騎士団長が顕(あらわ)れるまでは。

自身による最良の村上春樹論

見かけよりかなり複雑な小説である。主人公(私)と妻(柚(ゆず))が夫婦の危機を乗り越える、が大枠だ。宙(ちゅう)ぶらりんの私が小田原の山荘で過ごす半年余は、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』に似せてある。ディテールにふんだんに村上春樹らしい仕掛けを施し、音楽やファッションや自動車の描写をトッピングにまぶしてある。

主人公は画家、三六歳。美大で抽象画を描いていたものの売れず、結婚を機に肖像画を始める。好きな絵ではない。そんなある日、もう一緒に暮らせないと妻に言われ、家を出る。車で北海道、東北を巡った後、級友政彦の父・雨田具彦(あまだともひこ)画伯の空いた山荘に落ち着く。そして屋根裏で「騎士団長殺し」の絵を発見する。

具彦はウィーンに留学中、ナチ幹部暗殺計画に関与し、送還されて日本画に転じた。果たすはずだった暗殺の場面を密(ひそ)かに描いた傑作だ。

私は近くに住む謎の実業家・免色渉(めんしきわたる)から、肖像画を依頼される。報酬は高額だ。免色は、実の娘らしい秋川まりえに近づくため、豪邸に移ってきたのだ。そしてもう一枚、彼女の肖像も描いてくれと私に頼む。具彦の恋人はウィーンで殺害された。弟の継彦(つぐひこ)は南京で捕虜虐待を強いられ、除隊後に自殺した。命より大切なものを奪われた具彦は命をかけ、ほんとうの絵を描き切った。その絵が私を、創作に向かわせる。

画家は小説家に近い。本作は、村上の創作の秘密をこれまでになくつぶさにのべるものだ。免色はIT企業で成功し、マクシム(たが)を自らに課し、ジャガーを乗り回す白髪の五四歳。前作の主人公の姓(色彩がない)をもつ私の分身だ。その彼が、自分は空っぽだ、私が羨ましいと言う。不可能に挑むから。実際私は、免色の肖像画を完成し、「ほんとうの絵」の手応えを掴(つか)む。

本作の補助線のひとつが、視線である。免色は双眼鏡で谷向かいの秋川まりえの家を覗(のぞ)き、騎士団長の姿をしたイデア(小人)も、宮城県の白いスバルの男も、すべてを見通す視線を私に向ける。『グレート・ギャツビー』の道端の看板の、神を象徴する眼のように。

村上春樹は社会の矛盾を描かず、通俗だとみられやすい。ナチや南京事件や東日本大震災に触れたとしても、社会派ではないぞと。小説の本質を知らない批判だ。村上春樹は、人間の欲望や感性の普遍的な場所から出発し、日本から出発しない。これが川端や三島や大江と異なり、世界に受け入れられる理由である。

仕事も結婚も、私はうまくいかない。若い世代の典型だ。村上は、大丈夫、《信じる力(、、、、)が具(そな)わってい》れば、と声援を送る。私は意を決して妻のもとに戻り、やがて生まれる新しい生命の誕生を待ち望む。

本作は私が、過去を回想して書いている。過去はもう確定している。だがそれが現在だったとき、人びとは意思し選択し、出来事をうみ出した。出来事には原因があり、原因にも原因がある。世界は《時間と空間と蓋然(がいぜん)性》で出来ていて、結局全体は見通せない。ただしイデアは世界の外で、全体を見通す視線をもつ。作者はイデアの力を借り、世界と渡り合い、そのほんとうの姿を作品のなかに写しとる。小説がストーリーを紡ぐのは、世界を生きる人びとの姿をなお豊かに照らすため。創作はそうした営為だと、本書は語る。

村上作品は、寓話(ぐうわ)に満ちているので、つい謎解きをしたくなる。本筋から遠ざかるばかりだ。村上は、私は抽象画をやめた、それは形象をもてあそぶだけだ、と先回りしてのべている。世界と作品は、人物と肖像画のような関係のはず。そのことを主題とする本作は、村上自身による最良の村上春樹論になっている。
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編 / 村上 春樹
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(512ページ)
  • 発売日:2017-02-24
  • ISBN-10:410353432X
  • ISBN-13:978-4103534327
内容紹介:
その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた……それは孤独で静謐な日々であるはずだった。騎士団長が顕(あらわ)れるまでは。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2017年3月5日

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