書評

『わたしがいなかった街で』(新潮社)

  • 2018/05/26
わたしがいなかった街で / 柴崎 友香
わたしがいなかった街で
  • 著者:柴崎 友香
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(239ページ)
  • ISBN:4103018321
内容紹介:
2010年の世田谷から、1992年のユーゴスラヴィアで、そして1945年8月14日の大阪で-。1945年に広島にいた祖父。大阪で生まれ育ち、2010年の東京で一人で暮らす36歳のわたし。無職生活を続ける友人の中井、行方不明の「クズイ」…。戦争や震災など過去の記憶と、65年前に書かれた作家の日記が交錯し、現実の時間が動き始める。読むものを深い思索へ誘う傑作小説。

時間、記憶、メディア

表題作の「わたし」=平尾砂羽は、同僚たちとの会話のなかで、そこにいない社員について「ふざけんなよ、殺すぞ、くそぼけ野郎、って思いました」と、場の空気やモード設定から逸脱したコメントを良かれと思い口走り周囲をドン引きさせる程度にはコミュニケーション能力に難を抱え、同時にその欠陥を強く自覚し悩んでもいる三六歳の女性であり、心中深く反省し、別の会話でも想定したマニュアル進行を期待する様子から窺えるとおり、思弁先行型の内閉的な人物であるがゆえ、友人の有子から「脳内会議が長すぎる」とずばり指摘されるのだが、本作の読者は他ならぬその「会議」に臨席し、場合によっては席上自身の脳内会議も併走させながら読み進むことになる。いや、ならないかもしれない。ともかく私はそうやって読んだ。

派生的思考を誘引する力の強い小説である。だから、読むのにも時間がかかる。「土地の記憶」や「可能世界」、「偶然性と確率」、「メディアと現実」など、テーマはそれこそ高度に思弁的で多岐にわたるも、いずれもが反復的に折り重なるように砂羽の日常空間にどくどく溶かし込まれ、総体として物語構造そのものへと結実してゆく。緻密な設計と彫琢された文体とによって。その手つきは見事だ。

私が住んだことがあるのは、広島と京都と大阪と東京なのだが、本作にはその全部が出てくる。具体的な地名も記入され、それをフックに私の個人的記憶が累々回帰する。砂羽の祖父が死際に囗にし、彼女が十年前に訪れた「音戸(おんど)大橋」は、私が四歳のとき家族ではじめてドライブした場所だし、「神宮丸太町駅」から歩くシーンで、そんな駅あったっけと検索してみれば、なるほど、徒歩圈にあった京阪の丸太町駅が二〇〇八年に改称していた。知人たちもその辺にはもう住んでいないのかもしれない。「同じような場所で同じような人たちがいるつもりでも、人は少しずつ入れ替わって」いる。Googleストリートビューを起動させ音戸や川端通を擬似的に歩き回れば、変化も確認できる。

そう考えると、いま私が住むこのあたりも、過去の住人たちからすれば、少なからず印象がちがうはずで、現に、彼/彼女らの知らない私が住んでいる。試しに調べると、数年前まではゴルフ練習場(!)だった。知らずに生活していた。「わたしは、かつて誰かが生きた場所を、生きていた」。そして、未来の誰かがこの場所を生きる。どこであれ、無数の生活や物語の堆積=歴史が必ず存在する。それを砂羽は、作家の海野十三が戦争末期につけた日記をガイドに体感してゆく。

日記は砂羽の住む「若林」の様子を記録する。その時々に近い日付分をiPhone(途中から文庫)で読みつつ近隣を散策し、相当する場所に赴いては一九四五年の光景を重ねる。空襲前後の記述だ。別のスケールで描かれた地図で二〇一〇年の「ここ」を覆う作業。時間と空間が多層化する。確定に手間取ることもあるが、それを含め「歩く」ということなのだろう。友人たちが「脇目もふらず」まっすぐ歩くのと対照的である。迷いが砂羽の日常を横溢する。時間は上書きされることなく、幾度も掘りかえされ、再読=再生される。読者も思い思いの時間を加える。砂羽の内向する会議は逆説的に外へと広がる。

空襲の記憶は、広島や大阪京橋の空襲へと連絡する。偶然の些細な条件の差異で確率的に生死が分かたれる残酷さ。壮絶な出来事は人を「確率」や「偶然」の思考へと導く。常時の行為選択によって、その後の世界が幾通りにも分岐する感覚から、私たちは可能態としての別の現実を想像できる。ただし、つねに事後的に。直前まで爆心地付近にいた祖父を思うことは「存在しなかったかもしれないわたし」を想像することでもある。だから、「わたしは、かつて誰かが生きた場所を、生きていた」というフレーズは、可能世界的な思考を経由した認識として受け取らなければならない。SFや哲学では古典的なこの装置/課題にあくまで文学の側から挑む本作の態勢には――あからさまな解説性に多少の戸惑いを抱きつつも――凄みすらおぼえる。

想像力は海外へも向かう。砂羽は「歩く」ほかに、「戦争ドキュメンタリー」を観る趣味をもつ。ユーゴ内戦や第二次大戦を扱う映像作品を前に、「なぜ、わたしはこの人ではないのだろう」とやはり自己の問題を延々と考える。リビングに居ながらリモコン操作し、凄惨な光景をくりかえし目にする行為に伴うある種の後ろめたさ無感覚性に由来するものではない。自己と世界の関係、その媒介となる「画面」(の背後にある「編集」)の機制、あるいは出来事との時差の問題など、世界を見る「わたし」の環境をたえず再審に付す習性の先に問いはある。この箇所は秀逸なメディア論になっている。

時間的/空間的/心情的な「距離」そのものを考える営為を基点に世界に向きあおうとする本作は、一貫して他者の経験を引き受ける回路の(不)可能性を冷静に模索している。誰かの代わりに何かをなすことは可能か。体験共有の限界はどこにあるのか。砂羽は「なかちゃんがわたしの代わりにいろんなとこに行って、いろんな人としゃべってくれたらそれでいい気がする」といい、「祖父が帰りたかった場所に、代わりにわたしがいて、わたしの目がその赤い橋を見た」という。しだいに、砂羽と面識のない葛井夏が第二の視点人物として浮上し、大阪にいない砂羽に代わっていくつかの光景を目にする。自己と他者が融解し、別種の関係の結び方が小説全体の構造として描かれる。さらに、その目論見の成否は個々の読者に開かれている。

さて、本書は短篇「ここで、ここで」も収める。初出時から僅かだが決定的な加筆が施され(二〇一一年現在と明記)、しかも表題作と同梱されたことで、意味を再編する。そこでも、「時間」「記憶」「メディア」を拡張的に捉える試みがなされていたことがより鮮明になった。柴崎は特定のアイテムやテーマを執拗に反復する。必ず。日常(現在)と歴史(過去/未来)との接合=関係を多面的に追究し続けるはずだ。次の展開も楽しみに待ちたい。
わたしがいなかった街で / 柴崎 友香
わたしがいなかった街で
  • 著者:柴崎 友香
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(239ページ)
  • ISBN:4103018321
内容紹介:
2010年の世田谷から、1992年のユーゴスラヴィアで、そして1945年8月14日の大阪で-。1945年に広島にいた祖父。大阪で生まれ育ち、2010年の東京で一人で暮らす36歳のわたし。無職生活を続ける友人の中井、行方不明の「クズイ」…。戦争や震災など過去の記憶と、65年前に書かれた作家の日記が交錯し、現実の時間が動き始める。読むものを深い思索へ誘う傑作小説。

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