書評

『鼻に挟み撃ち 他三編』(集英社)

  • 2020/08/20
鼻に挟み撃ち 他三編 / いとう せいこう
鼻に挟み撃ち 他三編
  • 著者:いとう せいこう
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(176ページ)
  • 発売日:2014-05-02
  • ISBN-10:4087715558
  • ISBN-13:978-4087715552
内容紹介:
御茶ノ水駅で、マスク男が奇妙な演説を始める。それをじっと聴いているひとりの男。ふたりにはそれぞれ理由があった。第150回芥川賞候補作となった表題作と、斜め上を行く不思議な3つの短編を収録。

引用たちの創発性

アレントはベンヤミンの生涯を数行に圧縮するにあたって、「かれの学識は偉大であったが、しかしかれは学者ではなかった」という一文を先置し、以降はこれと完全に同型の構文(…, but he was no AAA…)をセミコロン(;)で連接させながら次々と反復、「神学者ではなかった」「翻訳家ではなかった」「文芸評論家ではなかった」「詩人でも哲学者でもなかった」……と並べ立てていく(『暗い時代の人々』)。贅するまでもない。通有的なカテゴリのいずれにもきっかり分類しえぬベンヤミンの過剰さを顕揚するために、である。

しかし、この否定神学型の定義作業の只中、否定形でない文が一つだけ紛れ込む。こうだ。「生まれながらの文章家であったが、一番やりたがっていたことは完全に引用文だけから成る作品を作ることであった」。当該部分のみ構文上の統一を欠く。前後を鑑みるに、「文章」執筆と「引用」行為の対立を読取るべきは明らか。オリジナルと非オリジナル。クリエイティブと非クリエイティブ。むろんアクセントはここにはない。だがそれにしても。ときに「引用」は強靭な創発性を発揮する。なかんずく芸術の各種領域において。そのことを私たちはよく知っている。ベンヤミンに限らず、「完全に引用文だけから成る作品」を何度も夢想し、実際に試行してもきた。

本誌一九九二年五月臨時増刊号『柄谷行人&高橋源一郎』にいとうせいこうが寄せた「「カール・マルクス」その可能性の中心」もまさに「完全に引用文だけから成る作品」だった。柄谷と高橋の複数のテクストから抽出した断片群のシャッフルで編成される四頁。両者共通の「マルクス」と「野球」の頻出が操作を支える。いま思うと創作技法としてのカットアップはさまで珍しくないものの、各人に特化したエッセイや論考が並ぶなかコンセプト一本押しの潔さは同冊を古書で遅れ読んだ地方の初心な高校生(僕)にいくらか衝撃を与えたようで、以後「いとうせいこう」のイメージの基底を占有し続ける――『ノーライフキング』でも『去勢訓練』でもなく。が、そんなことはどうでもよい。いとうせいこう『未刊行小説集』が最近刊行された(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2014年)。そこに「「カール・マルクス」…」も収まる。「あとがき」にこうある。校正者による各断片の原典との逐字照合に驚愕した、と。ここで留意すべきは初出時の「誤字脱字など」である。引用という再生=再現に混入してしまう偶発/必然の差異たち。差異のスケールは区々だ。今作『鼻に挟み撃ち 他三編』所収の四編を駆動する源泉もそこにある。

一本目「今井さん」。「私」は対談等のテープの文字起こしに従事している。プロとして音源の書字化の忠実さを自負する。しかし、忠実であるとはいかなる態勢か。音声が文字に変換されるとき、どれほど正確な転写に努めても既に差異は生じている。そもそも最低限の理路を確保するには、「私」も自覚するように、程度の差はあれ不可避的に「編集行為」を中継せざるをえない(言い淀みの省略や重複部の整形が典型)。そう、「物語」が滑り込むのはこの瞬間だ。いとうはそうした物語化に抗してきた(因果関係の整序の拒絶)。しかし、かつて席巻した物語批判の趨勢は――場合によっては“物語批判という物語”への無自覚の回収も経て――急速に消散してしまった。むしろ物語擁護の気運があらゆる局面に充溢して久しい。いとうが十数年のブランクを挟んだのはその形勢ゆえでもあったろう。物語化の機制をメタフィクショナルに問い返すこの短編をもって再起動が実現したことはあまりに象徴的だ。

同作が「聴くこと」と「書くこと」の間隙を突く小説だとすれば――「聴くこと」というテーマは本書短編群に前後を挟み撃ちされる形で発表された『想像ラジオ』が引継ぐ――、四本目「フラッシュ」は「書くこと」と「読むこと」の拮抗関係を焦点化した小説だ。薬物を摂取した女が超速で紙にテクストを書き綴り(薬効か体感時間も伸縮)、同席の男はそれを読まずにいられない。相互入れ子状の抗衡と融解を反復する二人の語りを繋ぐのは、「ボールペンからインクが細い煙として漏れ出してきてすぐに釘のように硬くなって上下左右に並べられる」文字の物質性だけだ。二本目「私が描いた人は」は「読むこと」と「話すこと」、あるいはそれを「描くこと」に相当。青年「PQ」は『ポケット六法』の条文をビルの各種備品に割振り暗唱しながら警備巡回する。文言をよく忘れる。書物に格納された文字列が無関係の空間に解き放たれ、語り手の「私」はその情景を連作絵画に着地させる。差異を複層化するのはやはり折り重なる再現行為だ。

かくして、短編群によって小説の存立条件が各個整備されていく。さて、「話すこと」と「聴くこと」の相関が残った。これを原動に設定するのが三本目の表題作「鼻に挟み撃ち」だ。御茶ノ水で街頭演説を延々続ける「わたし」(鼻を失っている)と、それを聴き続ける「私」(気づけば「わたし」の鼻と化している)。むろん全体要約がおよそ意味を結ばぬ内容であり、方法と枠組が終始前景化する。ゴーゴリ『外套』の物語構成素をサンプリングした後藤明生『挟み撃ち』とゴーゴリ『鼻』とを同時にサンプリングし、それらに関する解説を適宜施しつつ、私小説的パートを虚構と隣接させ、微分的な迂回をひたすら重ねていく。引用に畳み込まれた引用(の引用……)が自動的に開封され、語りの位相は無限に分裂する。位相間を往還しつつ、蘇生した先行作品の声を通道として歴史性がテクストに招喚される。

引用の来歴を論じたコンパニョン『第二の手、または引用の作業』(数年前に邦訳版が出た)の参看に及ぶまでもなく、とりまくシステムの偏差ゆえに引用行為はたえず新たな「豊饒さ」をもたらすだろう。とすれば、“文学史以後に新規性はいかにして可能か?”という問いには、さしあたりこう回答しておくことができる。アーカイブへ接続せよ、と。文学史はリサイクル可能な素材を膨大に蓄積する。あとは何を発掘し、どう組換えるかだ。
鼻に挟み撃ち 他三編 / いとう せいこう
鼻に挟み撃ち 他三編
  • 著者:いとう せいこう
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(176ページ)
  • 発売日:2014-05-02
  • ISBN-10:4087715558
  • ISBN-13:978-4087715552
内容紹介:
御茶ノ水駅で、マスク男が奇妙な演説を始める。それをじっと聴いているひとりの男。ふたりにはそれぞれ理由があった。第150回芥川賞候補作となった表題作と、斜め上を行く不思議な3つの短編を収録。

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