言論弾圧の恐怖 身に迫る
三年半前、いとうせいこうさんとのトークイベントの打ち上げで、このままではやがて検閲や言論弾圧が始まるだろう、という話になった(ALLREVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2018年)。いとうさんは、だから自分はもう検閲のあるつもりで、それでも検閲をくぐり抜けうる小説がどのように可能か考えている、検閲が始まってからでは遅い、今から対抗できるように準備する必要がある、というようなことを述べた。そのスタートがこの小説だろう。
時は二〇三六年。日本は長期にわたる戦争に敗北した結果、中国と思しき国の一部に組み込まれている。戦争を起こした日本の政府から言論弾圧を受けて十二年前に投獄された、齢(よわい)七十五歳のいとうさんかもしれない小説家の「わたし」は、日本政府が消えてもなぜかまだ獄中にいる。そして新しい統治者が「小説禁止令」を出したことを歓迎し、収監者たち手作りの機関誌に『小説禁止令に賛同する』と題するエッセイを連載して、小説がいかに危険でまがまがしいかを説く。それが本書だ。
当局の検閲があるので、「日本」という漢字をはじめ伏せ字がときおり混じり、カタカナはいっさい使われない。
「わたし」が小説を原理的に考察し、書くという行為は本質的に現実から離れる性格を持ち、読む者の虚実の境を曖昧にすることを、力説すればするほど、その文章自体が妖しい力を発揮し始める。つまり、まさにこの小説を読む読者である私が、現実から引きはがされて、この小説内の世界のほうをよりリアルに感じ始めてしまう。恐ろしいことに、私が作品の展開を予測すると、検閲している役人がその展開を指摘するのだ。文字、文という虚構がいかにして現実を侵食していくのか、読者は思い知らされる。
国家は警察と軍隊を通じて暴力を独占するが、検閲や言論弾圧や公文書改竄は国家による言論の独占である。小説がそれを覆す究極の存在であることを、この本は身をもって読者に体験させてくれる。戦慄すべき希望の書だ。