書評

『往古来今』(文藝春秋)

  • 2019/05/21
往古来今 / 磯﨑 憲一郎
往古来今
  • 著者:磯﨑 憲一郎
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(205ページ)
  • 発売日:2015-10-09
  • ISBN:4167904713
内容紹介:
母親の思い出から三十年前の京都旅行、『吾妻鏡』領主、郵便配達人まで――自在に空間と時間を往来する、「私」を巡る五つの物語。

「考えるな、見よ!」

異様に話が下手な友人がいる。枝葉部分まで忠実に再現しようとするあまり、微分的に細部から細部へと沈潜し、焦点が次々とズレてゆく。末節が本筋をずるりと呑み込む。遠近や深浅は脱臼し、断片たちがフラットに並ぶ。咄嗟の連想も遠慮なく挿入するものだから、関連性の希薄なエピソードへと一息で飛んでいってしまう。その先でも枝葉へと分岐。幹に戻らない。本人も初発のゴールを完全に見失っている。「何の話だっけ?」と訊くので、枝分かれした地点まで引き戻してやると、「そうそう、それでね……」と当初の本筋が再開する。しかし、またすぐに拡散。戻す。拡散。戻す。その繰り返し。円環は結ばれない。

聞かされる側はさぞ退屈だろうと思われそうだが、それがどうして面白い。下手なのに面白い。彼女の多次元的な迷宮にすっぽり身を委ねる感覚。論理を辿ろうとしてはいけない。構図が周到に練られた話とは対極にあるからだ。フリもオチもない。「考えるな、見よ!」――ウィトゲンシュタインはそういった。個々の事象と事象とが切り結ぶ「類似」の仕方そのものをただ注視せよ、と。

後期ウィトゲンシュタインのキータームに「家族的類似性」がある。『哲学探究』の第六七節前後で提起された概念だ。次のように解説される。盤ゲーム、カードゲーム、球戯、競技はいずれも「ゲーム」として括られる。しかし、全てに共通する要素など見つかりはしない。ある二つのゲームのあいだに何らかの共通点が発見されたところで、第三のゲームとつきあわせてみれば、それもただちに失効してしまう。複層的な類似関係によるゆるやかな接合。親族の成員間で外見や気質が部分的に類似する、あれと同じだ。それゆえ「家族的」と形容される。ウィトゲンシュタインは言語ゲームの唯一の「本質」を迫求する態度を棄却すべく当該概念を導入した。

さて。短篇集『往古来今』にはこんな一節がある。「サイとアリクイとバク、この三種類の動物をまだ幼い子供だった頃の私は愛してやまなかった」。こう続く。「三種の動物の共通点とは何だろう?」。「共通点」は見つからない。系統上の特徴の束から導こうとするも、「そんな情報を集めたところで何の説明にもなりはしない」。一作目「過去の話」の早い段階に位置するこのくだりは本書全体を解読する上で有能なガイドとなる。そう、収録された五本の連作短篇、さらには各篇を構成する大量のエピソード群の全てを貫く「共通点」など存在しない。ただ、設定やアイテム、フレーズを少しずつ共有しあっている。それも偶発的に。まさに家族的類似によって暫定的なまとまりを形成しつつ進む。

例えば、次のような挿話連絡方法を、「見よ」。線路内に迷い込んだ子犬を助ける話の後。「子犬の話と似ている話として、虹の話がある。しかし二つの話のどこがどう似ているのか、説明することは難しい」。じっさい、類似点はいっこう明かされない。しかも、「虹の話」にさんざ字数を費やしたあげく、「子犬の話と似ているといったのは、実はこの後に起こった事件なのだ」と、別の話にすっと移行してしまう。虹は関係ない。しかし、そこで語られるトラックの荷台に乗った少女の境遇やイメージは他の短篇へのリンクをしっかりと用意する。かかる次第で、輻輳的なネットワークを張り巡らせながら、一本の短篇が、そして一冊の短篇集が構成される。迂回と連想と微分が「連鎖」し小説空間を生成させる。類似性の相関図を作成し全容解析する所作はおよそ意味をなさない。私たちは全体を「見る」ほかない。

最初の四作は、五〇歳である「私」の現在と過去が物語の基軸となる。が、それも暫定的なラインでしかない。語りは放縦なまでに時/空間を自在に往還する。「私」の体験は他者の物語や土地の歴史によって、いとも容易く侵食されてしまう。無関係であるはずのそれらと相互浸透し、シームレスに繋がってゆく。本筋の位地も譲渡する。例えば、二作目「アメリカ」。五歳の娘とのある日の思い出は、サンノゼの半導体工場で働く別の男とその娘のエピソードへと連絡したまま、「私」の物語=本筋へと還流しない。二つの挿話は「パパ、頑張って! ここで負けない!」という娘らの発語の分有で奇跡的に重合する。

三作目「見張りの男」では、『吾妻鏡』の世界や相撲界を引退し郵便配達夫となった同級生の半生に、そして四作目「脱走」では、山下清の生涯に、各々覆い尽される。やはり「私」の物語は後景化する。テクスト構造としても主-従の逆転と無化が看取される。その過程で徐々に明確になるのは次のことだ。「私」の言動や知覚は過去の他者に強く規定されている。すなわち、私たちは誰かが歩んだ人生を歩んでいる。誰かが生きた場所を生きている。差異を孕んだ反復として再生/再演しているという感覚。この種の気づきは可能世界的な思考へも連接するだろう。「幼なじみの歩んだ人生とは、私が歩んだかもしれない人生」だという発想、あるいは、「私にも彼と同じ人生を歩んだかもしれない可能性があったのだろうか?」という疑念がそれだ。ここから、自分の人生を未来の誰かがトレースするはずだという予期へは一歩である。「自分と似た人間は百年後にも、二百年後にもいつも存在する」。

かくして、自己同一の前提が解体する。その先にあって、もはや「私」は不可欠の項ではなくなる(五作に通底する「筈」の氾濫)。代わりに、五作目「恩寵」では、世紀転換期にハワイへ移住した日本人たちの歴史だけが淡々と綴られる(前四作に連携するモチーフを多く含む)。この構成は象徴的である。本書が作品外部へも家族的類似の回路を開いているという事態を示唆するからだ。ウィトゲンシュタインはこうもいっていた。「何がいまだにゲームであり、何がもはやゲームでないのか。きみにその境界線が引けるか。引けはしない」。個々の短篇の「境界線」が融解する。短篇集総体のそれも溶融する。そして、社会や読者の過去へと触手は及ぶ。私たちは類似した断片群を記憶のアーカイブから発掘し、物語に合流するだろう。「すべてはひと繋がりの偶然の連鎖だった」。それを私たちは「見る」しかない。――「考えるな、見よ!」
往古来今 / 磯﨑 憲一郎
往古来今
  • 著者:磯﨑 憲一郎
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(205ページ)
  • 発売日:2015-10-09
  • ISBN:4167904713
内容紹介:
母親の思い出から三十年前の京都旅行、『吾妻鏡』領主、郵便配達人まで――自在に空間と時間を往来する、「私」を巡る五つの物語。

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群像

群像 2013年9月号

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