書評

『「断腸亭」の経済学―荷風文学の収支決算』(日本放送出版協会)

  • 2018/09/21
「断腸亭」の経済学―荷風文学の収支決算 / 吉野 俊彦
「断腸亭」の経済学―荷風文学の収支決算
  • 著者:吉野 俊彦
  • 出版社:日本放送出版協会
  • 装丁:単行本(533ページ)
  • 発売日:1999-07-01
  • ISBN:4140804483
内容紹介:
『断腸亭日乗』を経済・金融から読み解く。生活者としての永井荷風にエコノミストが迫る画期的評伝。

愛欲のコストパフォーマンス

大正六年九月、三十八歳の秋から昭和三十四年四月、八十歳で亡くなる春先まで、四十年以上のながきにわたって書きつづけられた永井荷風の『斷腸亭日乘』は、読書に耐える文学作品としてすでに不動の位置を占めている。全体がひとつの生の軌跡であり、時代の証言であり、巨大な私小説でもある荷風の日録は、論者の視点に応じて多様な側面を見せる万華鏡だが、本書は「日本銀行出身のエコノミスト」を業とする筆者が、もっぱら経済金融面に着目して『斷腸亭』の隠された一面に光を当てようとする、個性的な読解の試みである。

じっさい『あめりか物語』で華々しく文壇にデビューする以前の荷風が、れっきとした銀行員だったという事実は忘れられがちである。放蕩にふける息子の行く末を案じた父親の勧めでアメリカにわたった荷風は、シアトルで大学生活を送ったのち、やはり父親のつてで横浜正金銀行ニューヨーク支店に、ついでフランスのリヨン支店に勤務しているのだ。日々の業務にいくら退屈していたとはいえ、二年数ヵ月にわたってこなした行員生活を通じて、荷風はまがりなりにもこの方面に関する一定以上の知識と理解を得ていたにちがいなく、『斷腸亭』のなかに闇市の物価をふくむさまざまな数値が書き込まれているのも、言われてみれば若き日の仕事と無関係ではないように見えてくる。

要所要所で、荷風はエコノミスト顔負けの鋭く的確な読みで時局を見通し、直観的に最良の選択肢をたどって驚くばかりの行動力を発揮する。第一次世界大戦中、物価暴騰のピーク時に実家の土地を手放して大金を得、べつの地所の購入が困難となるや借地に切り替えて偏奇館を建て、数年後に安価で土地の権利を譲り受ける関節技を繰り出すかと思えば、昭和十五年に初の全集となる中央公論社版『荷風全集』の契約を交わした際には、刊行時期を昭和二十年十二月と定めるという驚嘆すべき予知能力を披露する。

もっとも本書の白眉は、荷風が女たちにどれだけの金を貢いでいたかの検証にあるだろう。一夜の料金から身請けの値段まで、『斷腸亭』には愛欲のコストとその見返りがつぶさに書き込まれているからだ。女性の肉体が変動する社会のなかで揺れ動く物価に組み入れられるとき、印税の領収書への署名と捺印が絶筆となった荷風にふさわしい、即物的であるがゆえの奇妙ないとおしさすら漂いはじめる。

やはり『斷腸亭』は面白い。

【この書評が収録されている書籍】
本の音 / 堀江 敏幸
本の音
  • 著者:堀江 敏幸
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(269ページ)
  • 発売日:2011-10-22
  • ISBN:4122055539
内容紹介:
愛と孤独について、言葉について、存在の意味について-本の音に耳を澄まし、本の中から世界を望む。小説、エッセイ、評論など、積みあげられた書物の山から見いだされた84冊。本への静かな愛にみちた書評集。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

「断腸亭」の経済学―荷風文学の収支決算 / 吉野 俊彦
「断腸亭」の経済学―荷風文学の収支決算
  • 著者:吉野 俊彦
  • 出版社:日本放送出版協会
  • 装丁:単行本(533ページ)
  • 発売日:1999-07-01
  • ISBN:4140804483
内容紹介:
『断腸亭日乗』を経済・金融から読み解く。生活者としての永井荷風にエコノミストが迫る画期的評伝。

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初出メディア

すばる

すばる 1999年11月号

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