書評

『ソニア・ウェイワードの帰還』(論創社)

  • 2018/10/06
ソニア・ウェイワードの帰還 / マイケル・イネス
ソニア・ウェイワードの帰還
  • 著者:マイケル・イネス
  • 翻訳:福森 典子
  • 出版社:論創社
  • 装丁:単行本(256ページ)
  • 発売日:2017-04-07
  • ISBN-10:4846016048
  • ISBN-13:978-4846016043
内容紹介:
海上で急死した妻、その死を隠し通そうとする夫。窮地に現れた女性は救いの女神か、それとも破滅の使者か…軽妙洒脱な会話、ユーモラスな雰囲気、純文学の重厚さ。巨匠マイケル・イネスの持ち味が存分に発揮された未訳長編!

約束事を転倒 楽しさあふれる書きぶり

本書の著者である英国のミステリ作家マイケル・イネスは、本名がJ・I・M・スチュアート。そちらのほうでは英文学教授を本職として勤め、筆名でミステリを余技として書いた、ということになっている。その余技であるはずの作品群ではジョン・アプルビイ警部物がいちばん有名だが、シリーズ外のものも多数書いていて、今回翻訳紹介された『ソニア・ウェイワードの帰還』はその中でも一頭地を抜く怪作である。

この小説の主人公はペティケートという元軍人で、彼はソニア・ウェイワード名義で小説を書いている人気作家の妻のおかげで何一つ不自由のない暮らしをしている。そんな彼の順風満帆な人生航路は、妻がヨットの上で不慮の死を遂げるという思いがけない出来事で、すっかり狂ってしまう。彼は妻の死体を海に投げ捨て、ソニアが長旅に出かけてしまったという口実を使うことにして、自分はソニアが残した新作原稿の後を書き継ぎ、印税でこれまでの生活水準を維持しようという算段を立てる。ところが、あるときソニアにそっくりの女性に出会い、死んだはずのソニアが生き返ったのかとびっくりするのだが……。

これはマイケル・イネスにしか書けないたぐいの、英国流の笑劇(ファース)である。リアリズムとは一切無縁で、現実には起こりえない出来事が次から次へと起こり、普通だと興を削(そ)ぐはずのご都合主義的展開が、意図的に徹底して用いられる。ジャンルの約束事はことごとく転倒される。たとえば、ミステリとして犯人の側から描く、いわゆる「倒叙物(とうじょもの)」の概念は、ここでは完全にはあてはまらない。なにしろ、ペティケートは妻を殺していないのだから。P・G・ウッドハウスの小説なら、ご主人様を助ける名執事が出てくるところだが、この小説では、ペティケートの家で雇われているヘンワイフ夫妻はゆすりの常習犯である。この例のように、登場人物には一人としてまともな人間はいない。それは動物にまで及び、ここに出てくる犬にはあろうことかジョンソンとボズウェルという名前が付けられ、ジョンソンは犬専用クリニックでマッサージを受け、ボズウェルは神経症を患って作業療法を受けているというのだから、大笑いするしかない。

評者にとってとりわけおもしろかったのは、作家ソニアと、偽作家になろうとしたペティケートに、作者マイケル・イネスの歪(ひず)んだ自画像がちらりとうかがえる点だ。ペティケートは、ソニアの後を引き継いだ新作の校正刷りを前にして、文学作品と娯楽小説との間にある大きな隔たりにショックを受ける。それは、大学教師のくせに余技で娯楽小説を書いている男として、スチュアート/イネスにしばしば浴びせられる視線を反映しているのだろう。しかし、ペティケートとイネスでは大きく異なる点が一つある。それは、ペティケートにとっては「不快で屈辱的なつまらない作業」を、イネスがとことんまで楽しみ尽くしたということだ。登場人物やプロットの自由自在な操り方には、その書く楽しさがあふれている。それがわたしたち読者にとって楽しくないわけがない。

残念ながら、翻訳にはしばしば小骨が喉にひっかかるようなところがあり、それが玉に瑕(きず)。とりわけ、英国女性小説家のアイヴィー・コンプトン=バーネットを「アイビー・コンプトン=バートン」としてしまった珍妙な誤りが放置されているのが気になるが、マイケル・イネスの愛読者なら、ご馳走(ちそう)にまた珍味が一皿加わったものとして、きっと目くじら立てずに賞味することだろう。(福森典子訳)
ソニア・ウェイワードの帰還 / マイケル・イネス
ソニア・ウェイワードの帰還
  • 著者:マイケル・イネス
  • 翻訳:福森 典子
  • 出版社:論創社
  • 装丁:単行本(256ページ)
  • 発売日:2017-04-07
  • ISBN-10:4846016048
  • ISBN-13:978-4846016043
内容紹介:
海上で急死した妻、その死を隠し通そうとする夫。窮地に現れた女性は救いの女神か、それとも破滅の使者か…軽妙洒脱な会話、ユーモラスな雰囲気、純文学の重厚さ。巨匠マイケル・イネスの持ち味が存分に発揮された未訳長編!

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2017年7月23日

毎日新聞のニュース・情報サイト。事件や話題、経済や政治のニュース、スポーツや芸能、映画などのエンターテインメントの最新ニュースを掲載しています。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
若島 正の書評/解説/選評
ページトップへ