書評

『ノルウェイの森 (講談社文庫)』(講談社)

  • 2017/07/05
ノルウェイの森 上 (講談社文庫) / 村上 春樹
ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:講談社
  • 装丁:ペーパーバック(304ページ)
  • 発売日:2004-09-15
  • ISBN:4062748681

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この作品は三十七歳の「僕」が、二十歳のころの「僕」の、愛が不可能だった青春を回想した物語だ。愛が不可能だったという意味をもうすこし詳しくいえば、ふたつあるとおもう。ひとつは「僕」と直子、「僕」とレイ子、「僕」と緑、それから副主題として挿入された「僕」の唯一の寮の友だち永沢とハツミさんの愛の不可能が、いずれも精神愛と性器愛のはざまで演じられることだ。とくに作品の主調音になっている主人公「僕」と直子との愛が、性器愛の不可能として描かれていることは注目に値する。わが近代文学の作品で、男女の性器と性交の尖端のところで器官愛の不可能と情愛の濃密さの矛盾として、愛の不可能の物語が作られたのは、この作品がはじめてではないかとおもわれる。もうひとつの愛の不可能という意味は、男女の性的関係を含んだ友情が愛にまですすんでゆくことができず、性的関係を含んだ男女そのものが、愛情の持続(結婚、家庭)にまでいくことができない男女の関係が、まともに描かれているということだ。これもたぶんわが近代文学では、はじめてではないかとおもう。何はともあれこのふたつの特徴は、この作品を高く評価するばあいも、それほど評価しないばあいも、誰もが認めざるをえない新鮮さだといっておいた方がいい。わたしの理解の仕方ではこのふたつの特徴は、現在の若い世代の性愛の風俗をかなりな程度、内在的に生き生きと写し取っており、それがこの作家を文学の若い世代の旗手にしている所以だとおもえる。

主人公「僕」はどこに愛の(持続の)不可能な種子をもっているのか。男性の唯一の副主人公永沢が作中で下す評価によれば「俺とワタナベ(主人公の姓――注)」は傲慢かそうでないかの違いはあれ、「本質的には自分のことしか興味が持てない人間」だからだ。また主人公「僕」の言い方では、あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにして、物事とのあいだにしかるべき距離を置くこと、という構えに、愛の不可能の原因があらわれる。「僕」は謙虚で優しく、自殺した親友キズキが愛した直子に愛情を抱き、精神を病んで療養所に入っている直子に、むくわれない愛をそそぐ。直子はただ一度過去にあった性行為以外には、不感症で性器愛が不可能な、神経を病んだ女性として設定されている。親友キズキの自殺も直子との性交愛が不可能だったことに原因している。「僕」は直子の療養所を訪れても、直子の指による射精とフェラチオしかできない。そして直子を深く愛しながら日常では、永沢と一緒にたまたま喫茶店やバーで出会った女性と性的交渉をもち、学校の講義仲間の緑とは、直子への精神愛から性交を我慢しながら、しだいに愛情をもつようになる。副主人公の男、永沢はハツミさんという美しい愛人がいるのに、平気でたくさんの女性とゆきずりの性関係を結んでいて、そのどれにも自己を傾けようとしない。この傲慢さはハツミさんをほかの男との結婚にむかわせ、結婚二年後にハツミさんは愛の不可能から自殺してしまう。ハツミさんは、作者によって作中でいちばん「僕」の憧れの女性として描かれている。とうに捨ててしまったとおもっていた「僕」の少年期の「無垢な憧れ」を揺り動かしてくるような女性だったことを、「僕」は十何年もたってはじめて思いあたる。

直子の愛はなぜ不可能なのか。神経が病んでいて日常の生活に耐えないことと、不感症で性交愛が不可能だからだ。ペニスを受け入れてもただ痛みしか感じないし、濡れることはない。この直子と主人公「僕」の器官性愛の(不可能の)描写は、見事なものであり、またそれなくしては作中の男女の愛の物語は成り立たないほど不可欠なものになっている。これは作品の要めをなすもので特筆しておくべきだとおもわれる。つまり男女の性器の尖端の接触する場面でなされる愛の不可能の描写が、この作品の特徴なのだ。直子は、たとえ「僕」と共棲しても、「僕」が会社へ出勤したり、出張にいったりしている間の時間すら、不安と恐怖で耐えられないだろうという心のひ弱さの予感と性器愛の不可能とから、「僕」の長いあいだの優しさといたわりと共棲しようという誘いにもかかわらず、しだいに心の病をつのらせて、やはり療養所の森の奥で首を吊って自殺してしまう。作者が直子の言葉の反射や動作に、ほんの少しのテンポの緩さを与えることで、その心の病を暗示する描写は見事で、読者ははじめはほんの少し何かが異常だと感じさせられながら、しだいに直子の病のあらわれを納得させられるようにできている。

直子の療養所の同室であり、「僕」や直子よりも十幾つも年上のレイ子は、なぜ愛が不可能になったのか。レイ子はあまりにひ弱な心の素質からピアノのキイをたたく指が、神経症的に動かなくなり、ピアニストになることを断念したあげく、幸福な結婚をし、子供を儲けた。内職にやっているピアノ教室で、教え子の悪魔的な虚言症の中学生の女の子から、同性愛を仕掛けられる。そして逆にその女の子からあのピアノの先生は同性愛者で、行為を強制されたと言いふらされて、睡眠薬をのんでガス自殺をはかる。そして未遂に終ったのち、じぶんの方から離婚してくれと夫に頼んで、しだいに心の病気をつのらせるようになる。直子をいつもいたわり、「僕」と直子の出会いをたすけてくれたレイ子は、直子が自殺したあと、療養所を出て夫や子供のところへ帰らず、旭川の友人のところへ旅立つ途中に、東京に立ち寄って「僕」とひと晩に四回性交して充たされて、もう生涯の分だけ性交したと感じて、旭川に去る。「僕」が大学の演劇史の講義で出会った緑は、なぜ愛が不可能なのか。恋人にたいしても「僕」にたいしても、つまりどんな男にも性愛について陰影の感じを与えることができない。じぶんの出身の女子高でトイレにたまった生理ナプキンを集めて焼く話や、近所のおばさんが、くしゃみをしたとたんに「スポッとタンポンが抜けた話」を平気でやり、性の行為の過程に、勝手な思い入れをもったり、じぶんのことを思い浮べながらマスターベーションをやってみてくれと平気で頼んだりする。また死んだ父親の仏壇のまえで、裸になり股をひろげてこれが貴方の娘よ、と示威してみせたりする。このあけっぴろげを嫌われ、その挙句に恋人を失う。「僕」がこの緑の性愛のかげりのなさを許容して、どこまでも優しくするので、緑はしだいに「僕」に傾いてゆくようになり、「僕」の方も惹かれて愛するようになってゆく。

結末は、直子が自殺したあと「僕」は緑に何もつげずに傷心と動揺から、山陰の海岸の方へ一ヵ月ばかり放浪の旅行にでかけ、緑をおこらせるが、緑のいるところへ帰るのが最短の通路だということが暗示されるところで、物語はおわる。

この作品は、題名がビートルズのナンバー『ノルウェイの森』から採用されている。そして主人公の三十七歳の「僕」がハンブルク空港に着陸しようとするとき、飛行機のスピーカーからBGMとして流れてくる曲として作品の冒頭にあらわれる。また自殺した直子を葬う夜に、「僕」と直子の同室だったレイ子さんが弾く曲のひとつとして、作品の終りに近くあらわれる。それでわかるように、ビートルズの全盛期に青春を育てられた世代の男女の恋物語を、回想風に語った作品だ。作者にしてみれば『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という、意図的に強固に構成された(されすぎて固くなった)作品のあとで、流れるようなリリシズムの文体と情念で作られた、どちらかといえば気分よく書いた最初の長篇ということになるかとおもう。そして流してあるようにみえながら、どうしてこの作者の力量のほどはいたるところに自由に発揮されて、渦を巻いている。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が、考えすぎて、固く停滞気味で、読みとおすのに難儀したのにくらべると、この『ノルウェイの森』は、ひとところの渋滞感もなく、埋めこまれた短篇作品「螢」の延長線に、たっぷりと果汁を含んで展開されている。むしろ溢れる液汁が多すぎるような気がして、わたしには女漬けになった印象が濃くて食傷気分がのこった。だがよくかんがえるとこの女漬けになった印象を構成しているのは、性交が不可能で禁じられていて、ペッティングや、フェラチオや、指を使った射精や、女の子の裸体を空想しながらのマスターベーションなどから複合されたものだ。わたしはこれに近い複雑な性の印象をうけた場所がどこかであるとおもった。それは新宿の歌舞伎町の覗き部屋だ。まん中に裸になった陰毛のかげりをみせた女性が横たわってポーズを変幻させる。それをとりまいて区切られた覗き部屋があって、ひとりずつ孤独に誰にもみられずに、まん中の女性を視つめることができる。まん中の女性はポーズを変えたり、覗きガラスのすぐそばまで全裸の姿をみせに、立ってくる。ところでそれぞれの覗き部屋を訪問して、指で射精させる御用をうけたまわりにくるのは、別の女性なのだ。わたしは古典的な赤線地区や往古の吉原遊廓などのような、ストレートな性交の場所ではないのに、性的な陰影の複雑さの効果では遥かに勝っているようにおもえる覗き部屋のエロスのシステムに感心したことがある。村上春樹のこの作品のもつ抒情的な効果は、この覗き部屋の複雑なエロスの効果にとてもよく似ているとおもった。

直子が心の病気をもち、不感症であるため、恋人になった男たち(主人公の「僕」やそれ以前の恋人キズキ)と性交できず、フェラチオや指での射精しかできないにもかかわらず、情緒だけの愛が深いという設定。また主人公の「僕」と緑とが、お互いに恋人との関係が未決なために性交を避けてペッティングや指戯だけでもちこたえられるという設定。副主人公の永沢と恋人のハツミさんが、永沢の女性を性的なハケロとしかみなさない傲慢な振舞いのために心身ともに愛しあっているのに別れてしまうという設定。この愛の不可能の設定の交錯した効果が、この作品を覗き部屋のように複雑な陰影をもった、現在の若い世代の性の風俗と様式をとらえていることになり、この作品にかがやきを与えている。現在では男女の性の対幻想が、なぜ永続されないか、また若い男女が性の対的な関係を永続させようとするモチーフと意欲をなぜ失っているかというテーマに、よく内在的な根拠を与えることになっている。フェラチオ、クンニリングス、マスターベーション、フィンガー・ワークというように、性器をいじることにまつわる若い男女の性愛の姿を、これだけ抒情的に、これだけ愛情をこめて、またこれだけあからさまに描写することで、一個の青春小説が描かれたことは、かつてわたしたちの文学にはなかった。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈上〉日本篇 (中公文庫) / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈上〉日本篇 (中公文庫)
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(387ページ)
  • ISBN:412202580X

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ノルウェイの森 上 (講談社文庫) / 村上 春樹
ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:講談社
  • 装丁:ペーパーバック(304ページ)
  • 発売日:2004-09-15
  • ISBN:4062748681

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1987年12月

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