書評
『イサム・ノグチ――宿命の越境者』(講談社)
二つの母国を持つ彫刻家の波乱の生涯
イサム・ノグチの作品に、たいていの日本人はそれと気づかず接している。ちょっとシャレた旅館や料理屋で、和紙の風合を巧みに生かした丸くて大きい提灯のような照明が天井から垂れているのを一度は見ているはずだが、あれは“あかり”と題される彼の作品で、戦後の照明のロングセラーなのである。イサム・ノグチは、“あかり”に象徴されるように、日本の伝統と欧米のモダンの両方に学び、そのことで二十世紀後半を代表する世界の彫刻家となり、そしてもちろんアメリカの研究者によっていくつも伝記は書かれているのだが、限界があった。言葉の限界で、彼の二つの母国語の日本語と英語の両方に同じくらい深く通じなければ本当の伝記は書けない。この限界がドゥス昌代によって突破され、大部な成果として届けられたことをよろこびたい。
よろこびたいのだが、しかし、伝記は、悲しい出来事から始まる。イサムの出生のヒミツである。イサムが、明治、大正期に英詩も書ける新体詩の詩人として活躍した野口米次郎(ヨネ・ノグチ)の息子として生まれたことはよく知られるが、次のような実情は伝えられてこなかった。
米次郎は、アメリカ滞在中、下手な英語の添削役として雇った「何か自分をおさえたさびしげな感じがする」中学教師のレオニー・ギルモアと同棲しながら、しかし同時に『ワシントン・ポスト』文芸記者のエセル・アームズに求婚し、そのさなか、日露戦争勃発を機に、英詩を書ける文学者として凱旋帰国し、慶応大学の教師となる。
そして、残されたレオニーは、ロサンゼルスで一人で淋しく男の子を産む。息子の命名を米次郎に頼んでも、もとより愛などないから返答はなく、仕方ないからヨネにちなんで“ヨー”と呼ぶ。レオニーはヨネを心から愛していたのだった。
イサム・ノグチは死の直前に自分の生涯についてテープに吹き込み、著者の手で初めて公開されているが、それによると、
〈ぼくは待ち望まれて生まれたのではない。父母にとっては、不便このうえないお荷物だった〉
混血で父親のない子という二重の荷物を抱えた母は、急速に高まる排日感情に押し出されるようにして、アメリカを去り、日本に向かう。出迎えてくれた父は、二歳の息子に勇の名を付け、はじめて親子三人水入らずの生活が始まるのだが、しかし、父は週の半分はきまって家を空ける。父にはすでにもう一組、妻と子があったのだった。結局、二人は父と別れ、以後の十一年間を日本で過ごす。
生い立ちの話が長くなったのは、途中で止めることのできない内容のせいだから仕方ない。以後も内容は同じ調子で続き、やがてイサムは成長し、すぐれた彫刻家となって太平洋を往き来しながら、さまざまな女性と恋を重ね、もちろんその中には山口淑子=李香蘭との結婚などなど、さらに当然のこととして日本や世界の芸術家との交渉などなど、人間がらみの面白い話が続くのだが、ここでは省く。
イサム・ノグチの造形表現について触れたい。
ノグチが芸術家の道を目ざしたのは、母の強い意向で、国籍にとらわれずに生きるには、芸術家になるしかない、と決めていたからだという。そして、十三歳の時、アメリカに戻り、モダンな彫刻を学び、戦後、再び来日して、日本の伝統を強く意識しかつ現代的な作品によって大きな衝撃を日本と世界に与えてゆくことになるのだが、どうも分からないことが私には、一つある。
国籍にとらわれず、というのに、どうしてあれほど日本の伝統に引かれていたのか。反発しながら引かれるというような複雑な心理は別にして、ノグチが日本の伝統のなかでもとりわけ銅鐸、埴輪、古墳のような古墳時代の造形に魅せられていたのはなぜなのか、これまで納得できる説明を聞いたことがない。ノグチの彫刻はいずれも大地を強く意識し、晩年には、大地の凹凸をテーマにした環境造形に没頭しているし、日本側アトリエのあった四国高松近郊の牟礼の自邸(現イサム・ノグチ庭園美術館)の裏手の自分の墓域には、古墳に学んだにちがいない墳丘状の巨大な盛り上がりを築いているのだが、そのことと、国籍を捨てることとはどう関係しているのか。この長年の疑問には、本書のラストで、ノグチ自身が答えてくれた。
庭を熱狂的につくりたがる私の気持ちは、多分、私の生い立ち、つまりどこかに属したいという願望からきているのかもしれません。二つの国を背負って生まれた私は、自分の故郷がどこなのか、安住の地はあるのか、……とたえず探しつづけてきました。
無国籍に生まれたゆえに帰属すべき地を求め、古墳に象徴される大地の造形に安住の場を見つけた、というのである。
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