書評
『甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社)
「主義者殺し」か、合理主義的道徳家か
甘粕(あまかす)正彦というと、関東大震災の混乱に乗じて大杉栄一家を惨殺した憲兵大尉で、出獄後に満州(現中国東北部)に渡るや謀略の中心となり、以後、満映の理事長として君臨するが、終戦と同時に自殺した怪人物、このあたりが一般的イメージだろう。しかし、「従来の甘粕像をことごとく覆す」とオビに謳(うた)われた本書を読むと、甘粕正彦は自己利益を合理的に追求するがゆえに近視眼的なエゴイズムや単細胞的思考は棄(す)ててかかる類(たぐ)いの真の意味での「道徳家」であったことがわかる。満映で甘粕理事長の右腕だった古海忠之は甘粕の特異な人間性を論じた後こう結んでいる。「この複雑多面な性格のなかで、とくに強烈であったのは正義感であり真実を貫く心であった。不正、不義を極端に憎み、嘘(うそ)、偽り、ごまかしはもとより、偽善的あるいは無責任な言辞、行為に対しては鋭く反発するのが常だった」。実際、遠くにいるときは「主義者殺し」の色眼鏡で見ていた者も、近くに寄ってはその圧倒的な人間的魅力に平伏せざるをえなかった。満映では全社員が、思想・国籍を問わず、甘粕理事長を慕い、悪口を言う者はほとんどいなかった。
しかし、そうなると、関東大震災のどさくさに紛れてアナーキスト大杉栄を愛人の伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一少年もろともに惨殺し、古井戸に投げ込んで隠蔽(いんぺい)を図ったというあの陰惨な事件は、いったいどのような思考回路を経て憲兵大尉・甘粕正彦の脳髄に宿ったのかという疑問が湧(わ)いてくる。どう見ても大杉一家暗殺は単細胞的な思考の産物でしかないからだ。
にもかかわらず、甘粕大尉は自分がやったと主張し、懲役十年の判決を受けて下獄して、以後の人生を策謀渦巻く満州で闇の帝王として送るほかなくなる。もし甘粕正彦がなにものかを庇(かば)ってこの罪を被(かぶ)ったとするなら、彼の自己犠牲はいかなる思考に基づくものだったのか?
いや、その前に甘粕大尉は大杉殺しの真犯人なのか否かが問われねばならない。
川中島の勇将・甘粕近江守を始祖に持つ武人の誉れ高い家系に生まれた甘粕正彦は当然のように軍人の道を歩んだが、馬事訓練中に負傷したことから歩兵は諦(あきら)め、憲兵へ転身せざるをえない。憲兵司令官・石光真臣に引き立てられ渋谷憲兵分隊長となるが、関東大震災があったその当日、麹町憲兵分隊長兼務を命じられ、運命の暗転を見る。
では、結論から言って甘粕大尉は本当に大杉一家惨殺の犯人だったのだろうか? 少なくとも甘粕の供述や軍法会議での証言には重大な矛盾がある。たとえば橘宗一少年殺害の件に関して、弁護人から問い詰められると「実際は私は子どもは殺さんのであります。菰(こも)包みになったのを見て、はじめてそれを知ったのであります」と自白したが、真犯人と称する部下が三人名乗りを上げるや、自供を覆し、宗一殺しを命じたのは自分であると断言する。「軍人は上官の命令なしには何事もできない存在である。(中略)甘粕は上官を守り、部下を庇って、自ら捕縛される道を選んだのではないか」
戦後、偶然、大杉一家の検死を担当した田中隆一軍医の「死因鑑定書」が発見され、大杉と野枝の死体には殴る蹴(け)るの暴行を受けた跡が残されていたことが明らかになった。これは、二人とも自分一人で絞殺したとする甘粕証言とは完全に矛盾する。
ノンフィクションにとって最大の敵である時間の経過と戦い、生き残りの関係者の証言を徹底的に拾って漸近線的に真実に近づいた、本当の意味での労作である。
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