書評

『新版-犬が星見た-ロシア旅行』(中央公論新社)

  • 2023/02/06
新版-犬が星見た-ロシア旅行 / 武田 百合子
新版-犬が星見た-ロシア旅行
  • 著者:武田 百合子
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(416ページ)
  • 発売日:2018-10-23
  • ISBN-10:4122066514
  • ISBN-13:978-4122066519
内容紹介:
生涯最後の旅と予感している夫・武田泰淳とその友人、竹内好とのロシア旅行。星に驚く犬のような心と天真爛漫な目を以て、旅中の出来事、風物、そして二人の文学者の旅の肖像を、克明に、伸びやかに綴った紀行。読売文学賞受賞作。解説・阿部公彦

動物的ばあさんになる

私の読書歴を振り返って点検してみると、女性ライターのものはほとんど読んでいないことに気づく。九割がた男性ライターの書いたものを読んで来た。それも小説より雑文とか評論の類い。

そういう言葉が今でもあるのかどうか知らないが、いわゆる女流文学は私の読書歴の中からスッポリ抜け落ちている。好んで読んで来た田辺聖子小説は私の中では珍しい例外のようだし、倉橋由美子小説はいわゆるつきの女流文学ではないだろう。私の、もの凄く乱暴な固定観念で言うと、いわゆるつきの女流文学というのは、さまざまな形での恋愛小説である。私は恋愛とか男女関係の機微には大いに関心があるのだが、しかし、そういう関心はもっぱら現実場面にばかり向けられていて、小説(あるいは映画、芝居)のほうには向かわなかった。そういう関心が「読む」ということに直結しなかった。書物の中に私が求めていたのは……自分でも何だかよくわからないが……別のものだったような気がする。

いきなりだが……「眼」の面白い人が好きなようだ。この世の中を、人間を、自然を、自分をどう見ているか。他の誰でもない、その人ならではの「眼」で反応している人が好きだ。私が本を読む理由の大半は、そういう人と出会いたいという気持なんじゃないだろうか。

私は女性ライターのものはわずかしか読んでいないが、好きな人は格別に好きである。やっぱりどこか女ならではの共通する感覚があって、それで他の男性ライターたちとは違った愛着を感じるのだろう。

尾崎翠、森茉莉、武田百合子――この三人が、私の好きな女性ライター御三家である。いわゆる女流文学という枠で見たら「異端」なのだろうが、私にとっては「正統」である。私の心の真ん中にいる。この御三方には、「こう感じるのは私だけじゃあなかったんだあ!」と、どんなに励まされたかわからない。

そもそも尾崎翠と森茉莉は作家、武田百合子は雑文家という違いがあるが、この中で最強の「眼」の持ち主は武田百合子だ。

御存知のように、武田百合子は夫(泰淳)に半ば強制されて日記を書き始めた。昭和四十四年、四十四歳のときのことである。武田泰淳の死後、彼女の日記は『犬が星見た――ロシア旅行』と題されて、出版された。百合子、五十四歳の年である。

すばらしく面白い「眼」の記録である。(話はまだるっこくなるが……)私はこの数年、ある仕事のために日本の日記文学を、それこそ荷風の『断腸亭日乗』から『猿岩石日記』までという具合に読みあさっているのだが、『犬が星見た』は数ある日記文学の中でも最高の「文学作品」なんじゃないかと思う。少なくとも、私は一番愛している。

東洋人の頸は細くがくがくしている。日本人の顔は主に蟹に似ている。顔の中が*の印になっていて、体つきもこわばっている。

ときどき汽車は駅らしきところに停まる。本当に黙って。駅だからといって囲いの柵もない。大きな白樺の生えかぶさっている駅もあった。そして本当に黙って、滑るように発車する。私は気に入った。

もしかしたら星など見えはしないのかもしれないが、そうとしか思えない恰好をしている犬を見かける。はやばやと人や車の往来がと絶えた大晦日の晩などによく見かける。とりかたづけられ、いつになく広々とした舗装道路のまんなかに、野良犬なのか、とき放された飼犬なのか、ビクターの犬そっくりに坐って、頭をかしげ、ふしぎそうに星空を見上げて動かない。
まことに、犬が星見た旅であった。

と書く武田百合子が、私にはたまらなくかわいい。女だなあ、と思う。女の、面白い、楽しい部分をたっぷり持っている。

花を見れば自動的に「キレイねえ」、シャネルのマークがついていればそれだけで「さすがねえ」、何代も前から軽井沢に別荘を持っていると聞くとすかさず「リッチねえ」などと言う女とは対極にある女らしさ。

心の中に何か、子猫か子犬のようにグニャグニャとしなやかに動き回っているものがいる。その動き方を、武田百合子は自分によくなじんだ言葉で、みごとに書き表している。武田百合子の日記(『犬が星見た』だけでなく『富士日記』『遊覧日記』『日日雑記』も)の魅力は、動物的なところだ。固定観念やおきまりの感覚に支配されない、何か、動物的なものが文章の向こうで跳梁しているところだ(私は「世間的」という言葉の反対語のような気持で「動物的」という言葉を愛用している)。

尾崎翠と森茉莉の文章に出会ったのは私の二十代の頃だったが、何度読み返してもフレッシュだ。古風かもしれないが、古くさくない。「若作り」というのとは全然違った形で、永遠の若さのようなものを感じる。

明治二十九年生まれの尾崎翠が昭和六年に書いた小説『第七官界彷徨』の不思議に透明な世界は、私には吉本ばなな『キッチン』の何倍も美しく切実なものに思われるし、明治三十六年生まれの森茉莉が六十代の頃に書いた「私は明治の中で生まれたのに、現代のハイ・ティーンの愛の不在を持ち、アントニオーニの空漠があり、ベルイマンの映画の主題だという、“神の不在”なぞに、興味を持っている、という怪物である」という一言には気持よく笑わされてしまう。

この二人も、やっぱり武田百合子同様、心の中に変わった動物を飼っていた。

これから私も確実に老いていく。ばあさんになる。体が動かなくなっていくのは辛いが、それよりも心が何か一つの形に固まって動かなくなっていくのはもっと恐怖だ。自分の心の中の、裸んぼうの獣の声が聴こえなくなってしまうのは一番淋しいことだ。

私は、動物的なばあさんになりたい。

【この書評が収録されている書籍】
アメーバのように。私の本棚  / 中野 翠
アメーバのように。私の本棚
  • 著者:中野 翠
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(525ページ)
  • 発売日:2010-03-12
  • ISBN-10:4480426906
  • ISBN-13:978-4480426901
内容紹介:
世の中どう変わろうと、読み継がれていって欲しい本を熱く紹介。ここ20年間に書いた書評から選んだ「ベスト・オブ・中野書評」。文庫オリジナルの偏愛中野文学館。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

新版-犬が星見た-ロシア旅行 / 武田 百合子
新版-犬が星見た-ロシア旅行
  • 著者:武田 百合子
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(416ページ)
  • 発売日:2018-10-23
  • ISBN-10:4122066514
  • ISBN-13:978-4122066519
内容紹介:
生涯最後の旅と予感している夫・武田泰淳とその友人、竹内好とのロシア旅行。星に驚く犬のような心と天真爛漫な目を以て、旅中の出来事、風物、そして二人の文学者の旅の肖像を、克明に、伸びやかに綴った紀行。読売文学賞受賞作。解説・阿部公彦

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「小説トリッパー」は朝日新聞出版の季刊文芸誌です。3月、6月、9月、12月の年4回発行。書評ページの執筆陣には、鴻巣友季子さん、江南亜美子さん、倉本さおりさん、永江朗さんら、第一線のレビュアーをはじめ、朝日新聞の文芸記者や目利きの書店員が、季節ごとの話題作を余すところなく紹介しています。

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