生まれて、生きて、産んで、死んで、次世代にバトンをつないでいく
セミの亡骸が路上にころんと転がる夏の終わり。何年も土中で暮らし、やっと明るい場所に出たのに、ひと夏だけ翅(はね)を震わせ、あっけなく地面に落ちるのだから、ああ無情。しかし、著者は書く。
繁殖行動を終えたセミに、もはや生きる目的はない。セミの体は繁殖行動を終えると、死を迎えるようにプログラムされているのである。
感傷を拒むプログラムという無機質な響きに、むしろ救われる思いを抱く。生きとし生けるものすべて、生きて死ぬプログラムから免れることはできない。
本書は、静岡大学大学院農学研究科教授によるユニークな一冊だ。海、川、陸、空に暮らす多様な生命の終幕を粛々と描く二十九話。考えてみれば、これまで生き物の死の諸相をつぶさに観察したり、覗きこんで深入りしたりすることもなかった。しかし、生き物の「死にざま」とは多種多様なプログラムのありさまだと知るにつけ、著者のじんわりとした視線に惹きこまれてゆく。
ハサミムシの母親の最期は凄絶すぎて、絶句。卵から孵った自分の子どもたちに体を差し出し、貪られつつ死んでいきながら、血肉となって成長の糧となる。カマキリのオスにいたっては、交尾をしている最中にメスに食べられるのだから、壮絶だ。あるいは、ミノムシ。メスは頭だけ外に出し、フェロモンを発しながらオスを待つ。オスはメスの蓑(みの)の中に腹部だけ入れて交尾、このあと死んでしまう。泣けてくるのは、タコ。身を挺して卵を守り続け、無事に孵化を迎えると、泳ぐ力さえ残っておらず、すなわち母が死ぬときは子との別れのとき。
自然界においては、個体の死より、子孫を残すことが優先される。その「死にざま」に悲哀や切なさ、哀れみ、あるいは達成感や一種の幸福感を感じてぐっとくるのは、人間だけなのかもしれない。しかし、これだけは確かなのだ―死とはつまり、次世代へのバトン。
「死」は、38億年に及ぶ生命の歴史の中で、生物自身が作り出した偉大な発明なのである。
(前略)生命は元の個体から遺伝情報を持ち寄って、新しいものを作る方法を編み出した。これが、オスとメスという性である。つまり、オスとメスという仕組みを生み出すと同時に、生物は「死」』というシステムを作り出したのである。(「マリンスノー」)
そうだったのか。オスとメスは、あらかじめ死を前提とした存在なのだ。メスの体に寄生して生き長らえるチョウチンアンコウも、ひたすら働き詰めの働きアリや卵を産み続ける女王アリも、百獣の王と呼ばれて君臨するオスライオンも、そして人間の男女も。
あえて淡々と語られる生き物の死にざまは、自然界の多様性そのものだ。しかし、本書がひと味違うのは、行間から漏れ伝わってくる著者の心根が揺さぶりをかけてくるところ。ハツカネズミを実験動物として、ニワトリを経済動物として扱う人間は、その死をどう捉えればよいのか。とはいえ、カが自分の腕に食いついたら、容赦なくバチン!
そのときがやって来れば、みな死ぬ。生命をめぐるひとつの仕組みなのだから、ただそれだけのことだけれど。