自著解説

『聖なるズー』(集英社)

  • 2019/11/27
聖なるズー / 濱野 ちひろ
聖なるズー
  • 著者:濱野 ちひろ
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(280ページ)
  • 発売日:2019-11-26
  • ISBN-10:4087816834
  • ISBN-13:978-4087816839
内容紹介:
犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」に戸惑いつつ、著者は人間にとって愛とは何か、暴力とは何か考察し希望を見出していく。
犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」。
善と悪、正と邪、愛と暴力。
彼らは社会がそれとなしに決めた境界線上の細い道の上を、
愛する動物とともに暮らしている。
彼らと寝食をともにしたノンフィクションライターに、
「ズー」たちが打ち明けたこととは──?

動物との性愛。禁忌の先に、何がある?選考委員驚愕の第17回開高健ノンフィクション賞受賞作!

このたび『聖なるズー』で第十七回開高健ノンフィクション賞を受賞した、濱野ちひろです。

『聖なるズー』は、ドイツに住む動物性愛者たちについて書いた本です。タイトルにあるズーという言葉は、動物性愛者を意味するズーファイルという英単語の略語で、動物性愛者は自分のことをズーと称します。

そもそも、この本の元になっているのは、私が現在在籍している、京都大学大学院、人間・環境学研究科の文化人類学分野での調査研究です。動物性愛者、つまり、動物とセックスをする人々について研究していると話すと、怪訝な顔をされることがよくありました。そんなことを研究して何になるの、となかば呆れられることさえありました。

なぜ私がこの研究に取り組み、また、なぜノンフィクションを書いたのか。もしかしたら、もっとも気になることのひとつかもしれません。そこでまず、私の動機を説明したいと思います。

私は十九歳からの十年間、当時のパートナーから、ドメスティック・バイオレンスと性暴力を受けていました。この経験はとても根深く、私の奥底に凝り固まっていました。

時が過ぎようと、愛やセックスにまつわる苦しみや疑問は、鮮やかとさえ言ってよい強度で、私のなかにずっと存在してきました。私は、さまざまな方法でこの問題にこれまでも取り組んできたつもりでいました。しかし、歯車は空回りするばかりで、傷が癒えることはありませんでした。

そのような頃に、ひとつ決心をしました。それは、大学院で文化人類学的なセクシュアリティ研究に取り組むことでした。三十九歳になっていましたが、年齢など関係ありませんでした。どうしても乗り越えなければならないテーマに対して、学究的に取り組むことで、もしかしたら何かが見えてくるのではないかと、賭けに出たのです。

しかしそこでなぜ動物性愛なのか。なぜドメスティック・バイオレンスや性暴力に取り組まなかったのか。きっと疑問に思われるのではないでしょうか。

ある問題に取り組むとき、正面からそれを捉えようとする正攻法は、立派だと私は思います。しかし、それだけが正解とも思いません。もしも私が真正面から性暴力などの問題に切り込んでいたら、私はきっとやすやすと、ある罠にはまっていたと思います。その罠とは、自分のなかに強固に存在する正義感や、善悪の判断、そして常識です。

これらの感覚は、人間社会を成立させるために必要とされるものですが、一方で、やっかいなものでもあります。正義感や常識は、この世界を単純化して示してしまう危険性をはらんでいます。いいことと悪いこと、立派な人とダメな人、ノーマルとアブノーマル。様々なできごとや状態を、そんなふうに、二項対立の図式にはめ込んでしまいがちだからです。そして、そこから脱却することは、誰にとっても難しいことです。

私たちが本当に考えてみるべき問題は、善と悪、ノーマルとアブノーマルなどの、境界線上にこそ存在しています。どちらとも言えない曖昧なものごと、できごと、ひとびとが、この世の中には無数に存在していて、そこにこそ、熟考してみるべき現実があり、発見があるはずなのです。

動物性愛という性のありかたは、私にとって、様々な境界を示してくれるセクシュアリティだと思えました。人間と動物の境界。人間のセクシュアリティの境界。愛と暴力の境界。この世界に飛び込んだら、私はいったい何を感じるだろう。そう思ったとき、戦慄するような気持ちでした。ワクワクと胸が高鳴るのではなく、むしろ不安でした。しかし、だからこそ、私はこのテーマに取り組むことにしました。自分の常識を根底から覆してもらえたら、新しいものの見方ができるようになるかもしれないと思ったからです。

さて、この世の中では、うまく生きるために、多くの場合、みな、善悪で切り分けた世界のなかの「善」のほうに自分はいるのだと表明すると思います。しかし、ズーたちは、「善悪」で私にものごとを語ったことはありませんでした。彼らは自分の言葉で、愛やセックスを説明しました。彼らは自分たちが、どのように世間から見られているか、よく理解しています。彼らはときに、「変態」と言われ、「病気」と見なされる立場にいます。社会規範や常識によってノーマルとアブノーマルで切り分けられたとき、彼らは異常のほうに属すとされるのです。しかし、私が見た彼らは決して異常とよべる人々ではありませんでした。ズーたちは、社会がそれとなしに決めている、境界線上の細い道の上を、愛する動物とともに暮らしています。

彼らは私に、その境界線上の生き様を、誰にも打ち明けたことのない秘密までをも、話し、見せてくれました。ドイツで過ごした彼らとの数ヶ月間は、私にとって、常識を洗い直し、価値観を見つめ直す日々でした。それは、知的冒険といっていい旅路でした。

暴力に対する考え方や、その乗り越え方を、私は彼らとの生活を通して考え、いまはひとつの結論に達しています。暴力を乗り越えるには、相手との対等な関係性を実現することが必要です。それは、一朝一夕にできることではなく、絶え間ない努力を要します。自分一人でできることではありません。相手とのやりとりのなかで、相手を認め、相手を受け止め、味わっていくような根気のいる作業が、互いに必要なのです。

このような私自身の発見を書くために、私は、論文だけではなくノンフィクションを執筆する必要があると考えました。ノンフィクションを書くということは、他者に対してのみならず、自分についても妥協ない態度で突き詰めていく作業でもあります。論文では客観的な態度を貫いていればよいことも、ノンフィクションではそうはいきません。ノンフィクションにおけるこの泥臭い作業には、非常に大切な目的や意義があると私は思っています。それは、これまではプライベートな領域に留まっていた問題を、人々にわかってもらえるかたちで提示するという目的であり、意義なのです。

執筆が終わり、受賞も決まった今年の夏、私は久しぶりにドイツを訪れ、ズーたちに再会しました。本書の登場人物のひとりであるミヒャエルは、一緒に過ごした短い一日の最後に、私に静かにこう言いました。「以前に比べて、きみは自由になった。驚くほどに。素晴らしいことだよ。きみはいま、きみの道を歩き始めているんだね」。

この作品を書き上げることによって、きっと私は変わることができたのでしょう。

様々なことがあったから、今があります。思えば私たちは誰だって、なんらかの境界線上で迷い、時に苦しみながら、未来へと進んでいくものなのだと、私は今、思っています。

『聖なるズー』は議論を呼ぶ内容だと思います。多くの人に読んでいただけると嬉しいです。

*2019年11月15日におこなわれた「集英社 出版四賞」贈賞式でのスピーチを加筆・修正しました。

[書き手]濱野ちひろ(はまの・ちひろ)/ノンフィクションライター。1977年、広島県生まれ。2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。2018年、京都大学大学院修士課程修了。現在、同大学大学院博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。
聖なるズー / 濱野 ちひろ
聖なるズー
  • 著者:濱野 ちひろ
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(280ページ)
  • 発売日:2019-11-26
  • ISBN-10:4087816834
  • ISBN-13:978-4087816839
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犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」に戸惑いつつ、著者は人間にとって愛とは何か、暴力とは何か考察し希望を見出していく。

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