書評

『沈黙のたたかい―フランス・レジスタンスの記録』(新評論)

  • 2020/01/23
沈黙のたたかい―フランス・レジスタンスの記録 / ヴェルコール
沈黙のたたかい―フランス・レジスタンスの記録
  • 著者:ヴェルコール
  • 翻訳:森 乾
  • 出版社:新評論
  • 装丁:単行本(340ページ)
  • 発売日:1992-03-00
  • ISBN-10:4794801262
  • ISBN-13:978-4794801265
内容紹介:
ネオ・ナチ台頭への新たな警鐘!抗独レジスタンス作家の地下出版活動の軌跡。

あゝ、高校三年生の教科書

教科書は大事だ。

小学校一年のときの「だんだん畑をみよちゃんと」という話、三年だったか鈴木三重吉の「少年駅夫」、たぶん六年の芥川龍之介「蜘蛛の糸」、先生が読んで下すった有島武郎「一房の葡萄」など、まざまざと覚えている。
地下鉄を乗りつぐ途中、お茶の水の丸善に立ち寄ったら『沈黙のたたかい――フランス・レジスタンスの記録』(新評論)という本が平積みになっていた。著者名のヴェルコールに「あのベルコールだ」とピンときてレジに急いだ。

高校三年生の、赤い布ばりの現代国語の教科書。そこに私が何度読み返したかわからない「海の沈黙」(河野与一訳)が載っている。それはこんな物語だ。

第二次大戦中、ドイツ占領下のフランスのとある町。対独協力政権下でも住民たちは面従腹背であった。老画家の家にドイツ人将校がやってきて逗留する。その家には若い者が一人。

「ベルネル=フォン=エブレナクと申します」とていねいに挨拶し、名乗った彼は「祖国を愛する人々には非常な尊敬を感じます」と重苦しい空気をはねかえすようにいう。敵と味方、占領者と被占領者、そしてフランスの文化とドイツの文化、その散らす火花は言葉の形をとるわけにはいかない。

《沈黙が長く続く。それは、朝のもやのようにだんだん濃くなっていった。濃くなって動かないのだ。姪も動かずにいる。わたしも、もちろん動かずにいる》――私は息をつめて読んだ。

細かい雪の降る日、帰宅したエブレナクは初めて濡れた軍服を脱いで現れる。「しばらくあたらしてください」と彼は暖炉の前にうずくまる。空気がなごんでつい、彼は故郷の風景を語り出す。樅の木の森に積もる重い雪。ずっとフランスに憧れていたこと。自分が音楽家であることも。祖国を蹂躙(じゅうりん)されたフランス人の画家と姪はそれでも沈黙を守る。「おやすみなさい」と将校が出ていったあと、「一言ぐらい言ってやらないのは、ひどいかもしれないね」、画家がいうと、姪は高くまゆを上げ、憤りを含んだ目を輝かす。

しかし画家は観察していた。姪の魂が自分のこしらえた牢獄の中でじたばたしているのを、指が震えているのを。将校エブレナクは彼の憧れのパリに軍の用事で出かけ、そして戻ると、もはや二人の部屋に現れなくなる。そしてある日。

《「この六か月間に申し上げたことば、このへやの壁が聞いたことばはみんな、……あれは……忘れていただかなければなりません」》

彼がパリで会ったドイツ軍の連中は狂気としか思えなかった。「フランスを叩きつぶす」「魂をはい回る雌犬にするのだ」と征服欲のみを口にした。「あの人たちは炎をすっかり消してしまう」

自覚的反ナチであったドイツ人はそれまでに殺されていよう。エブレナクはそうした闘士ではなかった。しかし自らの属する軍隊のおぞましさを知ったとき、彼は自己破壊に向うしかない。「地獄行きです」

《一方の腕が東の方へ上げられた。――これからはえる麦が死体で育つことになる、広々とした平原の方に》

そのとき初めて彼の瞳と娘の瞳はつながる。「おやすみなさい。ごきげんよう」。長い沈黙がつづき、娘がかすかに唇を動かす。「おやすみなさい。ごきげんよう」。エブレナクはほほえんだ。

《それで、あの人の最後のイメージは、ほほえんでいるイメージになった》……

かくも絶望的な情況のなかでも人と人とが心を通わせることができる、という希望を、高校生の私に刻みつけた物語である。

さて『沈黙のたたかい』を読むと、この本ができた経緯がよくわかった。

一九四〇年、ドイツ軍はマジノ線を突破し、三ヵ月足らずでパリを陥落させる。対独協力のヴィシー政権が誕生するが、フランスの愛国者たちはレジスタンスを組織して闘い、ジャック・ドクール、マックス・ジャコブ、ロベール・デスノスらの知識人は殺された。

ヴェルコールは本名をジャン・ブリュレールという。地方出のグラフィック・デザイナーだった。一九三五年、アンドレ・ジードらの抵抗雑誌「金曜」に寄稿をつづけ、一九四二年、ピエール・ド・レスキュールらと秘密に「深夜出版」をはじめる。知識人たちがどのような行動をとったか、ジュール・ロマンが、ジャン・ジロドウが、ジュール・ベルヌが、アラゴンが時代をどう生きたか淡々とスケッチされて興味深い。それは抵抗した者の自慢話でも、生きのびた者だけに許される自己正当化でもない。

「深夜出版」の第一冊目『海の沈黙』は九十六頁を毎週八頁ずつ、十二週間かかって刷ったという。旧式で小さな機械しかなかった。刷り上がったものを製本したのは、二人の女性だった。それでも『海の沈黙』はひそかに広まってゆき、作者はジードかそれともマルタン・デュ=ガールか、などと噂された。「彼の描くドイツ人が善良にすぎる」との批判もあった。

しかし「深夜出版」の巻末に、「ナチスの占領下に刊行」と書いてドイツのとしなかったこと、同じく巻末に「一人の愛国的愛書家による印刷代負担」とだけ記し、補助金を出すから「軍民抵抗組織による印刷代負担」とせよ、との申し出を断ったことなど、感銘をうけた。

河野与一訳『海の沈黙』は名訳である。しかし教科書にある「ごきげんよう」が「アデュー」の訳であることにようやく気づいて、翻訳の難しさを思った。再会の希望をこめた「オー・ルヴォワール」ではなく、永遠の別れを予期しての「アデュー」であったのだ。

「深夜出版」は続々と本を出した。アンソロジー『詩人たちの名誉』には、「死者たちが黙っていることがもはやできないときに/生きている人間たちが沈黙をまもっていていいものであろうか」というジャック・タルディユの詩が掲げられている。このとき明晰な冷静な思想のためには、現実の災害悲劇は超越すべきだ、と主張する反政治主義の『詩人たちの不名誉』という反論の書すら出たという。エリュアールはこれにこたえ、「詩人の名誉は、むかしの孤独、離脱の真理にあるのではなく、迫害と殉教にさらされている同胞たちのなかにもどっていくことにかかっている」と擁護した。

私は『沈黙のたたかい』をあるテレビの書評番組で紹介したのだが、合評者の一人は「レジスタンスもきれいごとばかりじゃなかった」と語り、もう一人は「ナチスもフランス人にはずいぶん寛大だとの印象をもった」と述べられた。しかしフランスでレジスタンスに関わった人々は八千人も殺されているのである。その場で十分に反論しえなかった自分が歯がゆい。

『沈黙のたたかい』には、いかにジャーナリズムや出版が大勢にながされるものか、知識人がどう世渡りに腐心するかもあからさまにスケッチされている。昭和天皇の死、湾岸戦争、小選挙区制その他、私たちはつねにこうした大勢翼賛、そしてまじめに考えて何か言えば、声高だ、偽善だ、正義派だという斜めの札貼り、そして大事なことを見えなくするような乱痴気騒ぎを日々見させられている。ナナメの言説に対し、かつて「きいた風な口をきくな」と一喝した論者の方々があきれて発言なさらなくなり、あるいは亡くなられ、いまのメディア情況は心もとないかぎりだ。そんなことを考えながら『沈黙のたたかい』を読んだ。

ふたたび高校三年生の国語の教科書を引っぱりだす。版元は筑摩書房。西尾実、臼井吉見、木下順二他編とあるが、じつに考え抜かれ、よくできた教科書だとあらためて感じた。

冒頭に柳田国男「清光館哀史」。つづいて西脇順三郎「ギリシア的叙情詩」、金子光晴「湖水」、小野十三郎「現代詩について」。そして森鷗外「舞姫」。名ノンフィクション吉田満「戦艦大和の最期」。丸山真男「「である」ことと「する」こと」。夏目漱石「現代日本の開化」の二つの名講演も収録されている。一年間にこれだけキッチリ読んでキッチリ考えることができれば、それで充分な気がする。なにも受けを狙っての最新人気作家の作品など必要ないではないか。

どの作品のどの一行にも、鮮明な記憶があった。

「藤野先生」で、魯迅が仙台の医学専門学校へ赴くとき通った駅「日暮里」の名を頭に残したくだり、細菌学の幻燈で中国人が銃殺される場面であがった日本人学生の歓声が魯迅の耳を刺したこと。ここを読んで胸を刺されるようだった思いがのこっている。

「なにャとやーれ、なにャとなされのう」という「清光館哀史」の小子内(おこない)の人々の歌垣、月夜の盆の踊りも、目の前に浮かび、懐旧のせつなさにしめつけられる。

なのに、私はこの教科書をどのように「勉強」したかは、まったく覚えていない。申し訳なくも現代国語担当の先生の名前も忘れてしまった。作品末の鷗外や魯迅の顔写真に余分な髪の毛やメガネや熊の耳がくちゃくちゃ描いてあるところをみると、おおかた私は授業に退屈しながらいたずら書きをするか、他の頁を精読していたにちがいない。

【この書評が収録されている書籍】
深夜快読 / 森 まゆみ
深夜快読
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(269ページ)
  • 発売日:1998-05-01
  • ISBN-10:4480816046
  • ISBN-13:978-4480816047
内容紹介:
本の中の人物に憧れ、本を読んで世界を旅する。心弱く落ち込むときも、本のおかげで立ち直った…。家事が片付き、子どもたちが寝静まると、私の時間。至福の時を過ごした本の書評を編む。

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沈黙のたたかい―フランス・レジスタンスの記録 / ヴェルコール
沈黙のたたかい―フランス・レジスタンスの記録
  • 著者:ヴェルコール
  • 翻訳:森 乾
  • 出版社:新評論
  • 装丁:単行本(340ページ)
  • 発売日:1992-03-00
  • ISBN-10:4794801262
  • ISBN-13:978-4794801265
内容紹介:
ネオ・ナチ台頭への新たな警鐘!抗独レジスタンス作家の地下出版活動の軌跡。

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