書評
『ユイスマンスとオカルティズム』(新評論)
19世紀のオタクと現代をつなぐ「流体」
どの世紀も変化は十五年たって発生し、以後、本格的にその世紀が始まる。一九一四年【第一次世界大戦】、一八一五年【ワーテルローの戦い】、一七一五年【ルイ十四世の死】。ゆえに、二〇一五年頃(ごろ)に巨大な変化が起きて本当の二十一世紀は始まるだろうと予想できる。ところで変化は十五年前から用意されるという「副法則」もある。ためしに、一九八五年の年表を見ると「ゴルバチョフの登場」「プラザ合意」「Windows初登場」と二十一世紀的要因が出そろっている。では、さらに百年前は? 一八八四年【ユイスマンス『さかしま』出版】、一八八五年【フロイト、パリのシャルコーのもとで催眠療法開始】、一八八六年【クローデル、カトリックに回心】。「世紀末」研究家にとって興味深い出来事が一八八五年前後に集中している。ではこれらの出来事に通底している要因とは何なのか? 本書はこの暗合から出発し、ユイスマンスとオカルティズムとの関係解明を通じて、十九世紀と二十世紀を繋(つな)ぐ要因を探ろうという試みである。だが、そもそもユイスマンスとはどんな作家なのか? 一八四八年に生まれ、内務省勤務のかたわらゾラ一党の自然主義作家として出発するも、希代の奇書『さかしま』を上梓(じょうし)してデカダン派に転向、『彼方(かなた)』で悪魔主義に接近した後、カトリシズムに方向転換するという「揺れ」の激しい生涯を送ったマイナー作家である。
では、このマイナー作家がいかなる今日的な意味を持っているのかというと、それは『さかしま』の主人公デ・ゼッサントに典型的に現れたオタク性、引きこもり性にある。デ・ゼッサントは女性嫌いで、閉鎖された空間でモノに囲まれて暮らす道を選ぶが、快楽のはずの引きこもりは栄養摂取の一点で「激烈な苦痛に身を苛(さいな)まれる試練の場」と化す。
しかし、なにゆえに快楽の場であるはずの引きこもり空間が食物を介して苦痛の場となるのか? 著者はクリステヴァの「おぞましさ」理論にならって「女性と食物」という補助線を引く。ユイスマンスにとって「信仰は『女性』と『食物』という特権的な表象の交差するところに姿を現す」。人間に最初に食物(乳)を与えるのは母であり、母乳は食物(生命)の起源だが、母乳期の終わりとともに食物は不純なおぞましい食物と意識されるようになる。「ユイスマンスの主人公にとって、食物はほとんど常に、この『混淆(こんこう)された』食物をもたらす者、彼らにそれを準備し、給仕する女性的存在との関係を内包している。そして、女性は常に負の価値を帯びて現れる」
だが、オカルティズムの関係は? これが第二部、第三部を貫く問題意識である。著者によれば、世紀末に現れたマリア信仰とオカルティズムにおいては、ユイスマンスがいれあげたオカルティスト・ブーラン神父の教説に典型的なように、罪も病も呪いもすべて計量可能で移動可能な「流体(フリュイド)」の概念で捉(とら)えられていた。
さまざまな存在を贖罪(しょくざい)によって上昇させるには、まず自分自身の『流体』を聖霊の力を借りて純化――清浄化(セレスティフィエ)――した上で、清浄になった『流体』を他者に配分してやればよいということになる
ここまで言えば、慧眼(けいがん)なる読者はブーラン神父の流体理論がフロイトのリビドー理論と相似していることに気づくだろう。流体とはたしかに、フロイトに発してバタイユ、ラカンに至る二十世紀思想を貫く糸であり、そこには食物と女性が深く関係していたのだ。
ユイスマンスを介して最も現代的な課題に肉薄する勇気ある一冊。
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