書評

『本格小説』(新潮社)

  • 2022/03/28
本格小説 / 水村 美苗
本格小説
  • 著者:水村 美苗
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(605ページ)
  • 発売日:2005-11-27
  • ISBN-10:4101338132
  • ISBN-13:978-4101338132
一九六〇年代、「1ドルが360円、日本のGNPがアメリカの6分の1という時代」に、作家本人を思わせる少女〈私〉が体験するアメリカでの豊かな生活。彼の地で、少女は昏(くら)い野心を内に秘めたミステリアスな青年・東太郎と出会い――。

一九世紀末に西洋から輸入され日本の私小説と対置されたものの、今ではその大時代がかった風貌ゆえに忘れられてしまったジャンル“本格小説”をタイトルに持つ、この長くて濃密な物語は、意外にも“私小説”の表情をまとって幕をあける。その企(たくら)みが、まず巧(うま)いっ!

さて、いったん日本に帰りながらも、九〇年代後半、大学で近代日本文学を教えるため渡米した〈私〉のもとを、祐介と名乗る青年が訪れる。元文芸誌の編集者だった彼は、九五年の夏、信濃追分で偶然に知り合った東太郎と名乗る中年男から「小説家なら一人知っている」と〈私〉の名を告げられたのだという。そして、ある長い物語を聞いてほしいと切り出す。それは、太郎と一緒に追分に滞在していた冨美子という初老の女性が彼に語ってくれた、戦災孤児で単身アメリカに渡った太郎と、その幼なじみで中流家庭に育ったよう子、家柄がよく、後によう子と結婚した雅之、その三人をめぐる苛烈な愛の物語だった。この「ほんとうにあった」物語を思いがけず贈られた〈私〉は、それを小説にしてみようと考える。

〈私〉が語るアメリカでの生活と、そこで伝え聞いた大出世を遂げていく東太郎の噂話。太郎の生い立ちを〈わたし〉語りで祐介に伝える冨美子。それを祐介から聞いて小説にする〈私〉。戦後の東京と軽井沢を舞台に展開する、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』を下敷きにした恋愛物語と、チェーホフ『桜の園』を思わせる上流階級の斜陽の物語が、三人の語り手(私・わたし・祐介)と二人の聞き手(私・祐介)を得て、平成の今に生き生きと立ち上がってくる。

英語の“I”と違って、あたし、僕、俺など、どこで誰と話すかの関係性ひとつで変化してしまう“私”。作者の水村氏は、この日本語ならではの「主格=私」にまとわりつく難しさを逆手に取る。読者が「語り手=主人公だろう」と錯覚しがちな私小説の語り口を用いることで、たとえば昼メロで人気を呼んだ『真珠夫人』(菊池寛著)のような、現代では成立しにくい大恋愛の物語を、より近しい共感をもって読者に読んでもらえる工夫をこらしているのだ。この、「愉しんで読んでもらいたい」というサービス精神が素晴らしい。そういう奉仕の筆致によって、最上の純文学が最高のエンターテインメントであることを証明したのが、この作品なのである。

登場人物が成長するビルドゥングスロマンと、波瀾万丈の生涯を謳い上げるピカレスクロマンの特長を併せ持つ西洋で生まれた“本格小説”が、作者の仕掛けた知的な構成と語りによって日本の“私小説”と幸福な合体を遂げた。その意味で、また、読んで無類に面白い“お話”であるという点において、これは大変な傑作なのだ。文学的な技巧がこらされているにもかかわらず、読み手はそれを意識させられるということがない。太郎とよう子の幸福な、しかし絶望的なまでに不幸でもある愛の物語、その先が知りたい一心でページを繰る手が止まらなくなるはずだ。

――あたしが死んでも、殺したいって思い続けてちょうだい。

――僕が死んだって、殺したい。

日本文学史に残る名台詞。背筋が粟立ち、心臓を鷲づかみにされたような痛みが胸に走る感動を生む。この会話に至るまでの長い長い物語に、今から立ち会えるあなたが、わたしは本気で羨ましい。
本格小説 / 水村 美苗
本格小説
  • 著者:水村 美苗
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(605ページ)
  • 発売日:2005-11-27
  • ISBN-10:4101338132
  • ISBN-13:978-4101338132

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PHPカラット(終刊)

PHPカラット(終刊) 2003年3月号

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