書評

『新版-犬が星見た-ロシア旅行』(中央公論新社)

  • 2021/12/16
新版-犬が星見た-ロシア旅行 / 武田 百合子
新版-犬が星見た-ロシア旅行
  • 著者:武田 百合子
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(416ページ)
  • 発売日:2018-10-23
  • ISBN-10:4122066514
  • ISBN-13:978-4122066519
内容紹介:
生涯最後の旅と予感している夫・武田泰淳とその友人、竹内好とのロシア旅行。星に驚く犬のような心と天真爛漫な目を以て、旅中の出来事、風物、そして二人の文学者の旅の肖像を、克明に、伸びやかに綴った紀行。読売文学賞受賞作。解説・阿部公彦

来年こそ日記を書こう……

さて。私の一番の憧れは武田百合子の日記である。彼女の日記ほど五官のよさを感じさせるものは珍しいだろう。

『犬が星見た』から始まって『富士日記』(上・中・下)、『遊覧日記』『日日雑記』とあって、どれも面白いが、私は『犬が星見た』が一番好きだ(いずれも中央公論新社『武田百合子全作品』全七巻)。

昭和四十四年、武田百合子は夫の泰淳から「つれて行ってやるんだからな。日記をつけるのだぞ」と言われ、ロシア旅行一カ月の間、日記をつけていた。自分からすすんで書いた日記ではない。しかし、それは、もし日記の神様というものがいるとしたら、武田百合子は生まれた時から神様に選ばれていたかのように、日記文学の才能を発揮してしまったのだった。

鋭敏な観察眼と人物描写の妙、闊達な書きっぷりには、まったくほれぼれとしてしまう。特に、ツアー仲間の一人で、「わし、よう知っとった。前からよう知っとった」が口癖の銭高老人の描写に唸る。

例えば、劇場で芝居を見た時の話。

銭高老人のそばのアメリカ人らしい老婦人が、ときどき痰のからんだ咳をする。咳こみだすととまらない。水を打ったように静まり返ってしまった観客席に咳だけが遠慮がちにしばらく響く。咳がはじまるたびに、銭高老人は席から乗り出し、上半身をのび上らせ、首をまわして、周囲の人たちに顔を見せる。〈私が咳をしているのではないですぞ。これ、この通り。咳をしているのは、この隣りのおばはんですぞ〉という風に。

老人のそのアクションが目に浮かぶ。ほほえまずにはいられない。武田百合子はこういう些事のつかみ方が、とてもうまい。書きとめておかなければ、時の流れの中でサッサとこぼれ落ちて行ってしまうような事柄だ。しかし、日々を彩っているのは、こんな些事だったりもするのである。

あとがきが、また、すばらしい。平易で淡々とした文章なのに、読み終わった時、何とも言えない……無常感と言うべきか……深い感慨を残す。

武田百合子の日記を読むと、来年こそ日記を書こう――と、やっぱりつかのま、本気で思う。

【単行本】
犬が星見た / 武田 百合子
犬が星見た
  • 著者:武田 百合子
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:単行本(349ページ)
  • 発売日:1995-01-01
  • ISBN-10:4124032579
  • ISBN-13:978-4124032574
内容紹介:
輝く星に驚く犬のように天真爛漫な心で記す、白眉のロシア紀行。読売文学賞受賞作。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。



【この書評が収録されている書籍】
アメーバのように。私の本棚  / 中野 翠
アメーバのように。私の本棚
  • 著者:中野 翠
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(525ページ)
  • 発売日:2010-03-12
  • ISBN-10:4480426906
  • ISBN-13:978-4480426901
内容紹介:
世の中どう変わろうと、読み継がれていって欲しい本を熱く紹介。ここ20年間に書いた書評から選んだ「ベスト・オブ・中野書評」。文庫オリジナルの偏愛中野文学館。

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新版-犬が星見た-ロシア旅行 / 武田 百合子
新版-犬が星見た-ロシア旅行
  • 著者:武田 百合子
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(416ページ)
  • 発売日:2018-10-23
  • ISBN-10:4122066514
  • ISBN-13:978-4122066519
内容紹介:
生涯最後の旅と予感している夫・武田泰淳とその友人、竹内好とのロシア旅行。星に驚く犬のような心と天真爛漫な目を以て、旅中の出来事、風物、そして二人の文学者の旅の肖像を、克明に、伸びやかに綴った紀行。読売文学賞受賞作。解説・阿部公彦

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初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1999年1月号

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