書評
『黄金の羅針盤〈上〉 ライラの冒険』(新潮社)
飢えている子供を前に文学は有効か――という命題が、かつて論議をかもしたことがあったようだけれど、わたしにはそんな命題が生まれること自体不思議でならない。だって、「有効」に決まっているのだもの。飢えは肉体の危機を引き起こすけれど、物語の欠乏もまた魂に危機をもたらす。ひとはパンのみにて生きられるものではないのである。目の前に飢えで死にかけている子供がいて、手元に食べ物がなかったとしたら、せめて物語ってやりたい。その子の魂が苦痛の塊である肉体からいっとき離れて、此処(ここ)とは違う何処かを楽しく夢想する助けになってやりたいと、わたしは願う。
小説家とはそういう者を指すのだ。たとえ衣食住に足りていても満たされない魂を抱えてしまうのが人間という生き物で、飢えている子供という極端な例でなくたって、すべてのひとに物語は必要なのだ。ひとが地球上に存在する限り、小説家は物語る。飢えた魂を此処とは違う何処かへと誘(いざな)うために、小説家は物語り続ける。
フィリップ・プルマンの五百ページを超える長編ファンタジー『黄金の羅針盤』もまた、すべての満たされない魂に力を与える傑作だ。舞台となるのは「われわれの世界と似た世界であるが、多くの点で異なる」世界。一体、どう異なるのか? わくわくしながらページを開くと、その世界では人間にダイモン(守護精霊)がついていることがわかってくる。人間とダイモンは話をすることができるばかりか、遠く離れてしまうと互いに身を引き裂かれるような苦痛を覚えるほど心の通いあった、一生を通じての相棒なのだ。主人公の少女ライラのダイモンの名はパンタライモン、通称パン。お転婆なガキ大将のライラと、ちょっと臆病だけれど頭の回転の早いパン。まずはのっけから、このコンビの個性に魅了されること必定だ。
さて、ライラの周辺で子供が何人もさらわれるという事件が発生する。一体、誰が、何の目的で? 運命の子・ライラは、子供を取り戻したいと願うジプシャンの一団と共に、北方を舞台にした冒険へと旅立つ――。ページを繰る手を止めるのが困難なほど、次から次へと起こる胸躍る、または胸潰される出来事の数々。作者のストーリーテリングの妙が、読み手に魔法をかける。「われわれの世界とは多くの点で異なる」この物語世界のありように、どっぷり頭のてっぺんまで浸かってしまった自分に気づく頃には、よろいをつけた屈強の大熊だろうが、オーロラの向こうに浮かぶ空中都市だろうが、どんと来い! 此処とは違う何処かが、新しい“此処”となって心の奥深い場所に棲みついてしまった、そんな感じなんである。
その蓄積が読書の醍醐味というものだろう。主人公に心を寄り添わせ長い物語を共に旅することで、これまで自分の中にはなかった価値観や世界観や知識や感情を獲得する。それこそが、わたしたちの魂を豊かにしてくれるのだ。
実はこの長い物語は第一部にすぎない。今後「われわれが知っている世界」と「各世界間を移動する」物語がわたしたちを待っている。ライラ&パンと共に、その冒険に旅立つ日が今から楽しみでならない。早々の翻訳化を願う!(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2000年)
【下巻】
【単行本】
【この書評が収録されている書籍】
小説家とはそういう者を指すのだ。たとえ衣食住に足りていても満たされない魂を抱えてしまうのが人間という生き物で、飢えている子供という極端な例でなくたって、すべてのひとに物語は必要なのだ。ひとが地球上に存在する限り、小説家は物語る。飢えた魂を此処とは違う何処かへと誘(いざな)うために、小説家は物語り続ける。
フィリップ・プルマンの五百ページを超える長編ファンタジー『黄金の羅針盤』もまた、すべての満たされない魂に力を与える傑作だ。舞台となるのは「われわれの世界と似た世界であるが、多くの点で異なる」世界。一体、どう異なるのか? わくわくしながらページを開くと、その世界では人間にダイモン(守護精霊)がついていることがわかってくる。人間とダイモンは話をすることができるばかりか、遠く離れてしまうと互いに身を引き裂かれるような苦痛を覚えるほど心の通いあった、一生を通じての相棒なのだ。主人公の少女ライラのダイモンの名はパンタライモン、通称パン。お転婆なガキ大将のライラと、ちょっと臆病だけれど頭の回転の早いパン。まずはのっけから、このコンビの個性に魅了されること必定だ。
さて、ライラの周辺で子供が何人もさらわれるという事件が発生する。一体、誰が、何の目的で? 運命の子・ライラは、子供を取り戻したいと願うジプシャンの一団と共に、北方を舞台にした冒険へと旅立つ――。ページを繰る手を止めるのが困難なほど、次から次へと起こる胸躍る、または胸潰される出来事の数々。作者のストーリーテリングの妙が、読み手に魔法をかける。「われわれの世界とは多くの点で異なる」この物語世界のありように、どっぷり頭のてっぺんまで浸かってしまった自分に気づく頃には、よろいをつけた屈強の大熊だろうが、オーロラの向こうに浮かぶ空中都市だろうが、どんと来い! 此処とは違う何処かが、新しい“此処”となって心の奥深い場所に棲みついてしまった、そんな感じなんである。
その蓄積が読書の醍醐味というものだろう。主人公に心を寄り添わせ長い物語を共に旅することで、これまで自分の中にはなかった価値観や世界観や知識や感情を獲得する。それこそが、わたしたちの魂を豊かにしてくれるのだ。
実はこの長い物語は第一部にすぎない。今後「われわれが知っている世界」と「各世界間を移動する」物語がわたしたちを待っている。ライラ&パンと共に、その冒険に旅立つ日が今から楽しみでならない。早々の翻訳化を願う!(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2000年)
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