書評
『神秘の短剣〈上〉 ライラの冒険II』(新潮社)
ライラ・シルバータン。わたしたちの世界と似てはいても、多くの点で異なる世界にいる少女。相棒はダイモン(守護精霊)のパンタライモン、通称パンと、正しい道へと導いてくれる羅針盤に似た真理計。怒りっぽいけれど正義感に満ちていて、決して弱音を吐かない凛々(りり)しいお転婆娘が、子供たちがさらわれる事件をきっかけにジプシャンの一団と北の海へと旅立ち、気球乗りのリーや鎧をつけた白熊イオレク、齢三百歳の美しい魔女セラフィナらと力を合わせて、邪悪なくわだてに立ち向かい――。
ライラの冒険シリーズIにあたる『黄金の羅針盤』は、まったくもって驚くべき一冊だった。小説の醍醐味のひとつに、無から有を生じさせるダイナミズムがあるとするなら、『黄金の羅針盤』はまさにその見本だ。たとえば、ダイモン。ライラが生きる世界では、どんな人間にも必ずそれが寄り添っていて、話ができるのはもちろん、離ればなれになると互いに心が引き裂かれる苦痛を覚えるほどの絆で結ばれている。子供のうちは守護する人間の心の動きに合わせて様々な生き物に変身するダイモンは、やがて、大人に成長するとひとつの形に姿を定める。つまり、ダイモンというのは守護する人間の精神の核のごとき存在なのだろう。ライラとパン、この魅力的なコンビの冒険にハラハラさせられるうちに、自分にもダイモンがいればなあと夢想させられる。いや、見えないけれどきっといるはずで、それはどんな動物の姿をしているのだろうと考えないではいられなくなる。
それこそが文学の力だ。此処(ここ)ではない何処かを、自分ではない誰かを、夢みないではいられないわたしたちの心に、新しい此処や誰かを深く棲みつかせてしまうことこそが。ファンタジーの世界には、にわかには信じがたい突飛な設定が多々仕掛けられている。しかし、素晴らしい書き手ならそれをいともたやすくリアルに転じさせることができる。人間の心にひそむ否定できない邪悪さや、何かを守るためには別の何かを犠牲にしたり傷つけなくてはならない局面もあるという生の残酷。作者のフィリップ・プルマンは、そうした我々が実人生でさらされている試練から目をそむけず、自然な形で物語中に挿入することで、リアルというハードルを飛び越えるのに成功しているのだ。
「この巻はわれわれ自身の世界からはじまる」という作者の覚え書きが冒頭に置かれた、待望のシリーズII『神秘の短剣』も同様だ。精神が衰弱した母親を悪いヤツから守ろうと腐心するけなげな少年ウィル・パリーが、偶然に見つけた別の世界チッタガーゼへの入口。そこには子供しか存在しない。というのも、大人たちの魂を喰ってしまうスペクターという正体不明の物質が蔓延しているからだ。さて一方、前作のラストでオーロラの向こうに浮かぶ空中都市を目指したライラも、この奇妙な場所にたどり着く。そして、ライラのことを世界の運命を決定する子供と確信している魔女セラフィナや、我が娘のようにライラを愛する気球乗りのリーもまた――。
ライラの世界にあった子供の精神にだけ作用するダストと、ウィルの世界で確認された意識を持つ粒子シャドー、そしてチッタガーゼにはびこるスペクターの関連性。ライラと父親、ウィルと父親、ライラとウィル、三様の絆の行方。天使をも巻き込む世界戦争の予感。その中で真理計を持つライラと、神秘の短剣の守り手となったウィルが果たす役割とは? シリーズI巻目を上回る謎の洪水と、力強いストーリーテリングが読者をぐいぐい引っ張って、やがてさらなる新しい世界へと連れ去ってくれる。
その新世界では、鎧をつけた白熊イオレクと同じ眼差しを持つ頼もしい少年ウィルの存在ゆえに、男の子顔負けだったライラが以前よりも可憐さを増し、とある人物が雄々しくも哀しい最期を遂げ(三九六ページ、号泣必至!)、たくさんの喜びと同じくらいたくさんの血が流され、共感とドキドキと涙は前作比二倍。このハイテンションなストーリー展開からすると、「各世界間を移動する」ことになっている完結作では、おそらくこれまでの登場人物が総出演し、とんでもなくスケールの大きな大団円へとなだれ込むにちがいない! 『神秘の短剣』を読み終えたばかり、興奮収まりきらないうちから、早くも心は第III巻へと飛んでいる始末なんである。来年の春刊行なんて待ち切れないっ(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2000年)。
最後に、「ファンタジーなんか子供が読むものでしょ」とたかを括っている方へ。それは大変な誤り。証拠がこのシリーズなんである。読めば、わかる。絶対、わかる。
【下巻】
【復刊】
【この書評が収録されている書籍】
ライラの冒険シリーズIにあたる『黄金の羅針盤』は、まったくもって驚くべき一冊だった。小説の醍醐味のひとつに、無から有を生じさせるダイナミズムがあるとするなら、『黄金の羅針盤』はまさにその見本だ。たとえば、ダイモン。ライラが生きる世界では、どんな人間にも必ずそれが寄り添っていて、話ができるのはもちろん、離ればなれになると互いに心が引き裂かれる苦痛を覚えるほどの絆で結ばれている。子供のうちは守護する人間の心の動きに合わせて様々な生き物に変身するダイモンは、やがて、大人に成長するとひとつの形に姿を定める。つまり、ダイモンというのは守護する人間の精神の核のごとき存在なのだろう。ライラとパン、この魅力的なコンビの冒険にハラハラさせられるうちに、自分にもダイモンがいればなあと夢想させられる。いや、見えないけれどきっといるはずで、それはどんな動物の姿をしているのだろうと考えないではいられなくなる。
それこそが文学の力だ。此処(ここ)ではない何処かを、自分ではない誰かを、夢みないではいられないわたしたちの心に、新しい此処や誰かを深く棲みつかせてしまうことこそが。ファンタジーの世界には、にわかには信じがたい突飛な設定が多々仕掛けられている。しかし、素晴らしい書き手ならそれをいともたやすくリアルに転じさせることができる。人間の心にひそむ否定できない邪悪さや、何かを守るためには別の何かを犠牲にしたり傷つけなくてはならない局面もあるという生の残酷。作者のフィリップ・プルマンは、そうした我々が実人生でさらされている試練から目をそむけず、自然な形で物語中に挿入することで、リアルというハードルを飛び越えるのに成功しているのだ。
「この巻はわれわれ自身の世界からはじまる」という作者の覚え書きが冒頭に置かれた、待望のシリーズII『神秘の短剣』も同様だ。精神が衰弱した母親を悪いヤツから守ろうと腐心するけなげな少年ウィル・パリーが、偶然に見つけた別の世界チッタガーゼへの入口。そこには子供しか存在しない。というのも、大人たちの魂を喰ってしまうスペクターという正体不明の物質が蔓延しているからだ。さて一方、前作のラストでオーロラの向こうに浮かぶ空中都市を目指したライラも、この奇妙な場所にたどり着く。そして、ライラのことを世界の運命を決定する子供と確信している魔女セラフィナや、我が娘のようにライラを愛する気球乗りのリーもまた――。
ライラの世界にあった子供の精神にだけ作用するダストと、ウィルの世界で確認された意識を持つ粒子シャドー、そしてチッタガーゼにはびこるスペクターの関連性。ライラと父親、ウィルと父親、ライラとウィル、三様の絆の行方。天使をも巻き込む世界戦争の予感。その中で真理計を持つライラと、神秘の短剣の守り手となったウィルが果たす役割とは? シリーズI巻目を上回る謎の洪水と、力強いストーリーテリングが読者をぐいぐい引っ張って、やがてさらなる新しい世界へと連れ去ってくれる。
その新世界では、鎧をつけた白熊イオレクと同じ眼差しを持つ頼もしい少年ウィルの存在ゆえに、男の子顔負けだったライラが以前よりも可憐さを増し、とある人物が雄々しくも哀しい最期を遂げ(三九六ページ、号泣必至!)、たくさんの喜びと同じくらいたくさんの血が流され、共感とドキドキと涙は前作比二倍。このハイテンションなストーリー展開からすると、「各世界間を移動する」ことになっている完結作では、おそらくこれまでの登場人物が総出演し、とんでもなくスケールの大きな大団円へとなだれ込むにちがいない! 『神秘の短剣』を読み終えたばかり、興奮収まりきらないうちから、早くも心は第III巻へと飛んでいる始末なんである。来年の春刊行なんて待ち切れないっ(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2000年)。
最後に、「ファンタジーなんか子供が読むものでしょ」とたかを括っている方へ。それは大変な誤り。証拠がこのシリーズなんである。読めば、わかる。絶対、わかる。
【下巻】
【復刊】
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